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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

起雲閣別館について

2006年04月30日 11時54分12秒 | 日本観光

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私がこの建物を訪れたのは、昭和33年の頃である。
この建物は父の妻桜井すず名義になっており、昭和18年妻すずが死亡してから、父の名義になっていたのであるが、起雲閣買収後別館として
経営されていた。
部屋数も少なく、確か5~6部屋であったと思う。
熱海の裏の小高い山の上で、二階建てであった。
熱海の市街地が一望に見渡せて、夜の熱海の夜景は素晴らしかった。
この別館の一階から二階に上がる階段が、非常に急勾配であって
昇るのが恐ろしい位であった。
一階のロビーの間取りからそうなったと思うが、美人がツントシタ鼻の高さの感じでもあったようである。
起雲閣本館より静謐で、眺めも一流であるから、馴染み客のみであった。ここの女中頭をしていた人が、日本観光倒産時の社長の母親であった。
ここには有名な作家がよく泊まりに来ていたようである。
太宰治もそうであった。
愛人と雲隠れした時、新聞では大騒ぎとなったが、ここに滞在していたようである。
山の上の小さなホテルは絶好の隠れ家的存在である。
又武田泰淳がここで長期滞在して、「貴族の階段」を書いたそうである。
この貴族は近衛公爵をモデルにしたものらしい。
昭和34年に書いたものであるから、私がここに泊まったころでろう。
この小説が映画化され、森雅之が主演したといううが、私は見なかった。森雅之の映画は随分と見ているが、何故か印象が残っていない。
なんとなく暗い感じの性であろう。
京都で一度森雅之に散歩中会ったことがあった。
其の頃はまだ45,6歳であったと思う。
私は大学時代で、鼻の手術の後遺症で苦しんでいたころである。
なんとなく辨谷栄に似ていたといっても、そんな男前ではなかったが、
冷酷そうな感じが似ていたので、彼の映画の主演したものは殆ど覚えていない。
この起雲閣の別館は昭和50年代に売却された。
この頃は日本観光が40億の負債を抱えて、居た時代で倒産の危険が
あった時である。
其の頃の日本観光の社長は桜井清次で、私の戸籍上の母の弟である。
この頃から会社は急に傾いて来ていた。政権は10年で腐敗するといううが、桜井清次は25年以上も社長の職にいて、会社を倒産さける方法を桜井能唯や辨谷貞造等と考えていたのであろう。
別館を売ってシコタマ懐が暖まった桜井清次は会長になり、桜井能唯を社長として、会社を倒産に導いていくのである。
起雲閣、白雲楼は日本観光株式会社として、父の一人会社であった
ものを、日本タイプに違法な第三者割り当てを行い、又無償増資を行い
桜井能唯が過半数の株式を取得、辨谷貞造は起雲閣を数十億を掛けた改造して、抵当物件に仕上げるのである。
起雲閣、白雲楼は差し押さえ禁止物件である。
何故ならこれ等建物な父個人の資産に属しており、抵当権が付けられない物件であるからである。


白雲楼、起雲閣、「日本タイプライター」(19)再建整備計画(3)城端軌道

2005年08月25日 15時18分52秒 | 日本観光

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

前のブログで書いたが、昭和24年6月30日をもって整備計画は完了したのである。しかし終戦後より昭和23年頃までは、日本タイプは労働組合が生産管理をしており、会社が経営を取り戻すまで労働争議で明け暮れていた。父は昭和20年12月1日より1年半程戦犯容疑で鎌倉の自邸の一室に軟禁されていた。昭和22年夏戦犯容疑が晴れて釈放され金澤に帰郷した。その時は白雲楼はアメリカ軍将校の保養ホテルとなっていた。従って私と父は康楽寺の父の一室で面会をした。新聞記者が沢山いて記者会見の最中であったが、父を私はお互いの無事を確認しあった。 父は戦後まもなく白雲楼がアメリカ軍将校の保養ホテル事が決まった時、北陸鉄道の林家社長と話し合い白雲楼の経営を委託することにした。その為新たに北鉄興行株式会社を設立、新たに2500坪の洋館を増設、2年後に北鉄興行が正式に買収することにした。それと同時に大学前から石川郡内を通過し湯涌至る幅5間半の新道路を開鑿し、併せて電車軌道を施設、この軌道は湯涌から富山県城端え延長、省線と繋がる計画を父の経営する北国毎日新聞に発表した。しかしこの計画は上記の理由で中止となった。しかしこの道路計画は金澤福光線となり、プログの写真で示すように道路が近年になって出来ている。この道路の沿線には父が当初大東亜寺を建設する為買収した、医王山、キゴ山、金澤ゴルフクラブ(現在竹中工務店が経営)、を通って富山の城端町に繋がっている。昭和7年に白雲楼を建設計画の際、白雲楼の山の上には遊園地を作り、自動車が行ける道路を施設,頂上から遠く金澤から日本海を見晴らせ、山頂には野球グランド、テニスコート、ゴルフ場等を冬にはこのあたりから直ぐ横の高尾山にかけてよりどりみどりのスロープを滑ることが出来るスキー場を計画していたが、ここに康楽寺を建てることとなり、医王山付近を一体として買収した。ここに金澤から富山に通ずる新道を開鑿する計画を発表したのであった。現在はブログの写真の通り新しく道路が出来、医王山はスポーツセンターとして、キゴ山はスキー場として金澤市民に開放されている。ゴルフ場は何故か竹中工務店が経営している。金澤福光線は父が道路を買収していたわけであるから、私に官庁からなんらかの連絡があるはずであったが、白紙委任状を騙し取られ可関係で、弁谷貞造から散々嫌味を言われただけである。このブログの左上の山が医王山で、金澤ゴルフ場の左横がキゴ山スキー場である。湯涌温泉はテニスコートの右上に位置する。茶色い線が金澤ー富山県城端に繋がる道路である。城端は東本願寺の別院のある門前町で、父の考えていた康楽寺の50万坪の境内と連結し、宗教、美術、スポーツ,保健の殿堂となっていたであろう。