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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私の祖母 桜井トキ

2006年02月16日 09時31分01秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

桜井トキは私の祖母である。嘉永6年生まれで、明治4年9月桜井源次と結婚する。昭和15年父の戸籍から分家届けをする。
何故分家したかは父の死後を考えてからである。
先ず弁谷ハシの弟橋本清次を桜井トキの養子とする。この桜井清次が父をあとを継ぎ、日本観光株式会社の社長になる。
次いで二条知子が昭和15年に桜井トキの養女となる。二条公爵家の分家で、母方は金澤の加賀百万石の家老だあった、横山章氏である。同氏は金澤の財界を支配していたが、昭和初年の日本経済の破綻で財を殆ど失った。氏の主たる現存する会社は旧三和銀行の子会社石川銀行である。この銀行は平成のバブル崩壊で、債務が過大となり破綻、日本観光の起雲閣に十数億貸付、日本観光を、親会社の三和銀行が破産申し立てをし、日本観光を破産手続きに追い込み、起雲閣を12億で熱海市に売り、抵当順位を石川銀行に三和が譲り、石川銀行が12億円の返済を受けたが、上記の様に破綻し国有となった。その三和銀行側の代理人が、今度弁谷ハシの遺産審判の金澤家裁の弁谷貞造の代理人である。私の父が昭和初年横山章氏の会社破綻の際、その肩代わりをし、横山家の財産を取得したのである。
三和銀行が父の財産の管理会社であるので、三和銀行が石川銀行の親会社となったのである。三和銀行が起雲閣の一番抵当権を石川銀行に譲渡したのには、このような事情があったのである。 桜井トキの三番目の養女は、日本タイプライターの社長の妻である和子が昭和18年に入籍し、太田繁雄が入夫となった。四番目の桜井トキの養女は、弁谷ハシの妹の貞子であり、この人の入夫となったのは、日本観光を倒産に追い込んだ桜井能唯である。もう一人幸子がいるが、父の会社とは関係していない。
私の祖母桜井トキは昭和19年弁谷ハシの弟桜井清次に家督を譲り、父の戸籍に戻っている。このようにして父は自分の死後を考えて、私の親子確認の裁判をお越し、私を相続人にすると、戦後3人の他人の子供を認知している。私の戸籍は父がかって、松平家の養子の戸籍があったので、そこに入籍したのである。弁谷栄が戸籍が汚れるからと反対に、戸籍訂正に応じなかったので、父は除籍簿の中に入れたのである。 私は祖母が父の子がいないことを嘆いて、父に懇願して私が生まれたといつも私が祖母に会うたび私に言い聞かせていた。祖母は自分が弁谷ハシに育ててもらうようしたとも、話していた。またその時貞造は元気にしているかと祖母はハシに聞いたものである。祖母が言うには祖母と私がこの様に会えるのは、貞造のお陰だとハシに言い含めていた。というのは弁谷家ではハシの子が3人も生まれては直ぐ死んでいたので、弁谷栄が外で女を作り、貞造が生まれた事を言を言っているのである
祖母は昔の儒教の教育を受けた人であるので、私と祖母がいつも会って幸せにしている事を気にしていたのである。ハシはあの子も母と時々会っていると祖母に話していた。弁谷ハシは生まれる子が全部死んでしまうので、離縁の話がでていた。そこでハシは父を頼り、白雲楼の支配人にしてもらっていたのである。そこで弁谷昌造が生まれ、弁谷家では離縁するなら昌造を弁谷家の返す話しとなっていたらしい。そこ頃私が父と四条治子の間に生まれ、弁谷ハシが私を育てる事になっていた。ところが弁谷ハシは自分の最初の子である弁谷昌造を手放せなくて、弁谷家に私を連れて帰ることになったのである。勿論私は預かった子ととして入籍することは、弁や家との了解がついていた。当時は弁谷栄が戸主ではなく、その父親である弁谷謙蔵が戸主であったので、謙蔵の了解をえていた。勿論栄も了承していたと思われる。
従って今度の金澤家裁の弁谷はしの遺産相続権は私も貞造も無いのである。しかし私が父を相続するようになっていたので、弁谷家にはそれを証する書類があったので、それを弁谷ハシと貞造が共謀私から白紙委任状と実印を騙し取って自分のものとしたのである。 この写真は昭和19年仏舎利法要の式典に祖母が柳田村から
金澤の康楽寺に出てきた時のもので、祖母は90歳であったと思う。
一番手前の人である。私の母三条西治子の思い出http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-03-12


三条西治子 私の母 私の学生時代(3)

2006年02月15日 09時41分45秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私の大学時代学校の図書館で、私の母である三條西治子と出会った不思議な出来事を話した。次に山階芳麿氏との出会いを話した。これは私の母が私との親子の名乗りをあげたいという願いに対して、弁谷ハシがとった方法である。私の反応を知るため誰か観察人をおいて私と母の出会いを計画したのである。こうゆう事があることを予期して、鼻の手術を受けさせ脳を破壊したのである。であるから弁谷ハシは私が記憶喪失にあることをしっており、私が母を思い出すことがないことに自信があったのである。また私が小さいときから弁谷栄に頭を叩かれ続けられ、学校では精神薄弱児と先生より思われていた。弁谷栄が私の頭を色々な物で殴る時はお前が悪いのではない、お前の頭が悪いのだと言っていた。しかし中学3年頃より頭は回復傾向にあり、高校に入ってから頭が陥没してきたのである。頭に溜まっていた血が流失したので起こったのであろう。頭を叩かれ脊髄湾曲症になったこともあったのは既に述べた。しかし高校2年の鼻の手術の際の頭蓋骨の強打は酷い衝撃を与え、私の精神構造を完璧に破壊したのである。 私が大学の図書館であった3人は、三條西夫妻と久邇氏であった。久邇氏は皇后陛下の甥であり、私の母は皇后陛下の妹の後添えである。つまり三條西信子様の跡を継いでいたのである。久邇氏はまだ若く、堂々とした体格と威厳があった。私は大学卒業後は大阪の貿易商社に行きたかったが、弁谷ハシは学校に話して就職の世話をしてもらえなかった。学校側は就職先があるなら学校の就職を遠慮するように言われた。 私はハシの弟が取締役をしている日本タイプに入れといううのである。当時は就職難で結局日本タイプに入ることになった。私は過去を忘れていうから、父の会社といううことは全く頭になかった。ハシの弟の桜井清次の会社というう概念であった。私が父のことを思い出すのは、日本タイプに入って2年目ぐらいであったろう。そこでハシに、父の遺言状が必ずある筈であるから、それを見せて欲しいと言うと桜井清次と相談してくるから、としたが相談後遺言書にはお前の名前は出てこない。皆他人のことばかりで会社が倒産したらどうしろ、こうしろと書いてあだけである、といううことだった。その後日本タイプを辞め、桜井清次のガレージを改造した部屋から追放される。 それまでに色々なことがあったが、久邇氏の家が近くにあり、時々桜井清次の処に来ていたようである。つまり私と母のことである。私が母のことを忘れているので、会わせて欲しいと頼みにきたようである。清次の妻が話していた内容からその様な事であったと思う。清次の妻が久邇さんが度々見えたと話すと、清次はあの人には何回も駄目だと言ってあるのに、と怒った口調で妻に話していた。何故私の前で話したかと言えば、久邇氏が私と会っていないか確かめたかったからであろう。 その後清次の後見人である堤康次郎氏が久邇カントリークラブを作り、久邇さんのご機嫌をとったのであろう。

私と母の別れの言葉http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-03-13


私の学生時代(2)三条西治子私の母

2006年02月14日 10時24分50秒 | 私の母

 財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

回私の母と偶然学校の図書館で出会ったことなど書いた。大学2年の頃を思うが、やはり不思議な事があった。私が日曜日の朝、下宿の主人と話をしていた。特別な話ではなかった。その家の玄関の敷居の上に腰掛かけていた。その時ある瞬間その主人が奥に消えたのである。私はどうしようと考えていた時、玄関に大きな声で来客があった。中年の男性で声に張りがあり、且つ大声をあげるように聞こえた。私は吃驚して来客をみていると、名前を名乗っているらしい。私が返答に窮していると奥から先ほどまで私と話していた主人が出てきて、来客を招きいれ、玄関の敷居の扉を閉じてしまったのである。
従って私は一人玄関の敷居の外に残された。
私は来客と主人二人が話ししているのが良く聞こえた。その内容はあれの母親は二条家からきていて、天皇家のは血が近いとか話していた。私は玄関の戸を開けて中に入ろうか迷っていた。その家の主人は殿下こんなあばら屋にお越しになって・・・とか恐縮して話していたが、その内静かになったので中に入ると、来客はもういなくなっていた。私は再度吃驚したが、家の主人と玄関の敷居に座って話を始めた。あの人は貴方を良く知っているといっていたが、貴方は知らないか。名前を言ったが私には全然判らなかった。続いて主人は貴方の周りに皇族がいるとあの人が言っているが、貴方は知らないかと私に聞くので、全然判らず何の話をしているのか、判らずじまいであった。
その後その家の長男が私を連れ出し、山階鳥類研究所を知らないか言うので、全然記憶になく、知らないと答えると、来客人は山階鳥類研究所の所長で山階さんだというのである。あんな有名な人を知らないのかと私に言ったのである。そして二人は蕎麦屋に入った。もう昼頃の時間帯だったのであろう。彼は入り口の方を向いて座ったので、私は当然彼の前に座った。ところが彼は自分の横に座るようにいううので、仕方無しにかれの横に座ったのである。
何だか男同士並んで座るのが可笑しなものだが、下宿屋の長男だから文句も言えない感じで言われるまま横に座った。
この場所だとい蕎麦屋の入り口の方を向いているので、入ってくる人が直ぐ判るのである。その時一人の女性が入ってきて、私達の斜め前に少し離れて座った。その女性は私が何度会っている女性だった。
私が大学の図書館で会った時は洋装姿であった。
この様な洋装の人には滅多に今までお目に掛かって事はなかった。
この下宿屋の長男とバトミントンを家の前でしている時、今度は和服姿で私に道案内を聞いた人である。私はなんと美しいひとだろうかと驚嘆をしたのを覚えている。
又私が留守の時昔の知り合いだと訪ねて来た人であった。
私は何か不思議な思いがしたが、下宿屋の長男と蕎麦を食っているので、何か話をする事も出来ず、蕎麦やを出た。
その間彼は一言も喋らなかった。私の反応を伺っていたのである。
山階宮は鳥類研究で有名であるが、私は当時はなにも思い出せなかったのである。私の父は広島の浅野殿様と懇意だったらしく、弁谷家にいる時、皆が話しているをの聞いていたがその時は全然思い出せなかったのである。
浅野侯爵家と山階宮家とは縁戚関係で親しかったらしい。私の父もそうゆう関係で懇意にしていたものであろう。又私の母の父は二条家から来ており、その関係で二条家の分家から、二条知子さんが、父の母の養女となっていた。之までも話したように、私の脳は写真のように脳室の周りが真っ白で、神経細胞の再生が出来ない状態になっていた。また頭蓋骨の頭頂骨が損傷を受け、思考機能が破壊されていたからである。
又弁谷家では私が絶対に昔をことを思い出せないことを知っており、わざと私と母を合わせてそれを証明させていたのである。弁谷ハシは私の頭脳を破壊したから絶対に昔を思い出せない自信があったのである。
私の母が親子を名乗らせて欲しいと申し出たので、監視つきで私と母を会わせたのである。これでは母と子を名乗らせる事は無理である、私達は親子として仲良くしている、その中を裂かないで欲しいと、周りにみせつけたのである。一方で私の脳を破壊したのを知らん顔をしながらである。なんと残酷な人間達であろうか!
本来なら過去を話し、お前は預かっていたのだとハシがまず先に説明があってしかるべきところである。これが本来人間としての道である。
このMRIの写真は脳室の周りが真っ白で、両端の脳室から白い固まりが広がっている。これは先の頭蓋骨を強打された際、出血した血液が脳室にたまり、脳室の血管が詰まって血液の流れが止まり、神経細胞が死んだのである。
脳室の下方両端が白く広がっているのは、出血の量が多大でその痕跡を残している。これは頭蓋骨の出血が今も17歳の時から流れ続けていることを考えれば
判るであろう

私と母の別れの言葉
http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-03-13


私の学生時代 私の母三条西治子

2006年02月13日 08時34分19秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私は大学に入ってからも、前のブログで説明した様に、自分が誰か自分の過去や将来について,思考する事が不可能だった。だけどこの頃は色々な不思議な経験をした。私は之まで話した様に、自分を失っていたのでその場では理解が出来ず、こういった不思議な経験を後ほど思い出して、なるほどを理解できるようになったのである。私が理解したように、これ等の記憶を整理すると以下のようになる。私が図書館で本を読んでいたときである。ある日曜日の朝比較的早い時間帯であった。といううのは私のほかに図書館には誰も居なかったのである。その時3人連れの人が図書館を見学に訪れていた。二人の男性と一人の女性である。図書館の中を歩きながら建物を見て歩いていたようである。私は廊下に面した窓際に陣とって小説を読んでいたのである。その小説はスタンダールの赤と黒であった。私は小説の主人公の酷薄な運命に、魅せられてこの小説を読み耽っていたのである。
その時たまたまその美しい婦人と眼が合ったのである。私は懐かしいい人を見たように気持ちで、その洋装の美しい人に見入っていたのである。しかしその婦人は私のめから自分の目を離さず、ジット見つめ返していた。それから3人は私から少し離れた処で3人で話しながら私を見ているのである。その後図書館の人が三條西氏が来たという話をきいた。
私は三條西家の人と聞いてもピント来なかったのである。三條西公正氏はその図書館に沢山の古書本を納入していることを知った。
また三條西公正氏の弔電が弁谷栄の葬儀の席上で読み上げられ、学校の担任が皇后陛下の妹が嫁した家柄だと、私に話したことがあった。私はその頃は高校3年で、鼻の手術の後であったので、、過去の記憶を思いだすに到らなかったのである。その後大学の一年の時、上記の様に図書館で偶々私は自分の母親に出合ったのである。その後母親は私の近辺に現れるが、私は全然思い出す事が出来なかったのである。ある時は私の下宿先に昔の知り合いとして訪ねて来た。その時は私の不在のときであったが、その後をたずねて来たとき、下宿の人があの人だよといわれても全然思い出す事が出来なかった。その内電話が掛かってきて、私が代わると泣き声になって、崩れ倒れるような電話であったが私は何ら反応も示さなかったのせある。脳を破壊されるとこのように、感情から記憶にたどる事が出来なくなっていたのである。この写真の左から3人目がわたしの実の母である。こ写真は今から40年程前のもである。左から二位目が迫水真亀氏でのの隣が、私の母でその隣が弁谷ハシである。
私と母の別れの言葉
http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-03-13


頭蓋骨の強打による損傷(金沢国立病院偽医師)中村晃章の

2006年02月12日 10時34分18秒 | 鼻の手術

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

http://blog.goo.ne.jp/stendhal_ht/e/9a20dd0eaaa7451d2aa900de2c2b5612私を実際に手術した人物は、上戸村の真言宗の坊さんで医師の国家試験を落第した中村晃章である。彼は辨谷家に出入りして辨谷貞造の家庭教師をしており、父桜井兵五郎の奨学金により金沢医科大学にはいったものである。 

 このレントゲンの私の頭の損傷は、前頭前野と呼ばれる連合野であり、ここは脳の中の広範な情報を集めて、統合しそれを基準として行動を制御するときに使われる領域である。記憶の保持の障害ではなく、記憶をアクテーブ組織化することが障害されるのである。この前頭野の頭蓋骨を砕いたのであるから、私の人格が全く変わったのである。人間を廃人にしたに等しいのである。又この分野を損傷されると条件付き連合学習が障害される。認知作用を旨く振り分け、行動の選択え結びつけるという過程が要求として重要視される場所である。従って人間として社会に適用すべく活動が出来なくなるのである。それに鼻の手術の際、師骨を砕いた際、眼窩を酷く傷つけたため、脅迫障害を起し、思考力を全面的に失わせたのである。これが弁谷家の私の鼻の手術の目的であった。之に協力したのが桜井能唯等の日本観光の取締役である。私が金澤家裁で桜井能唯の妻を証人として、申請したのは全くの間違いなのであった。桜井能唯は私の鼻の手術を策術した一人だからである. ブログの写真は鼻の手術の際、師骨を砕き脳縦列から私の頭蓋骨を強打した痕跡を示すレントゲン写真をデジタル化した写真である。