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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

北陽土地産業株式会社について

2005年05月31日 06時37分09秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

父の持株会社は北陽産業株式会社であったが、戦後の持株会社排止令により、北陽産業株式会社はその持ち株を子会社の経営者の名義株とし、戦後の経済の疲弊から立ち直りつつあった昭和25年頃より父の悲観であった大東亜寺から寺号を変えた康楽寺の本殿の建築に掛かる予定であった。 完全子会社は日本観光株式会社、日本タイプライター株式会社、北辰化学株式会社、北陽土地産業株式会社等である。今回は北陽土地産業について述べる。 昭和初年世界経済が破綻し、日本にも押し寄せてきた頃である。現在もその不況の波から逃れられないいでいる平成不況と同じで、土地神話が崩壊、株式の大幅な下落に伴い20年近く未だその影響から脱し切れないでいる。 昭和初年頃も同じであり、時の三井、三菱をも凌駕すとまで云われた鈴木商店が崩壊した。これが台湾銀行の破綻になった。この時活躍したのが父の所属する民政党であり、父はその幹部として対策に当たったのである。 一方土地長者で三菱、三井に劣らぬ土地を東京に持っていた土地長者が、浜口内閣の片岡蔵相の失言で、全国で銀行の取り付け騒ぎが発生、その土地長者の銀行が震源地であったため過剰に融資していた土地長者の銀行は破綻し、日本橋界隈に持っていた土地を手放すことになった。 しかしあまりに膨大な土地資産であってので、いっぺんに放出すると経済が混乱する。父は第一次大戦時代にソーダ業界で、莫大な儲けをしたのである。丁度この頃父は日本橋で化学会社を経営していた。ソーダの輸入が途絶えたので、ソーダ会社をおこしたのである。父はおもてには現れなかったが、同郷の志と計らい大会社に後に成長する。父はその資金で国の債券を買い、一部昭和不況で倒産した土地成金の土地の手当てを行い、破産した不動産成金の更生会社会社を設立、広島県で土地の造成工事を行っていた・当時は山陽土地株式会社で昭和2年設立であった。この会社が北陽土地産業株式会社の前身で、日本橋界隈の土地を随分と持っていた。この土地がプログの写真の土地であり、現在新八重洲ビルデングとなっているUFG銀行の入っている土地である。プログの土地は現在の所有者に譲渡をしている。当初日本タイプのビルを新八重洲ビルの土地で建てる予定であったが、日本経済の回復が出来た頃と考えていた。現在の日本タイプの土地もこのような形で入手したもので、安田信託の不動産子会社日本橋興行の名義となており、徐々に日本タイプの土地名義になっていくのである。それを管理していたのが北陽産業株式会社を贈与された弁谷栄で昭和29年に亡くなるとその子供である弁谷貞造が引き継いだ訳である。起雲閣、白雲楼の土地もおなじであるが、土地の管理権は持っていてであろうが、所有権はない。従って抵当権の設定は出来るわけがないのである。所有権は父が持っていたからである。


北国銀行の申し立てによる白雲楼競売の落札の無効

2005年05月30日 07時47分27秒 | 北国銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

先のプログで書いた通り北國銀行の抵当の設定は無効であって、昭和39年に新築した新館を主たる建物とし、昭和15年頃出来た本館を隣家として抵当権の登記は出来ない。従ってその登記に基づいた建物の登記は無効である。 建物の敷地の登記にしても、北陽産業株式会社の名前となっており、北陽産業株式会社は父の一人会社であり、日本観光株式会社は土地所有権は持っていない。桜井清二や桜井能唯、弁谷貞造が日本観光株式会社になってから勝手に土地名義を変更しても、実際の所有権者は父一人しかいない。父の会社経営の後継人が世間を欺いたに過ぎない。父との約束を反古にし、父が信託した会社を欺瞞したのである。父が当初白雲楼を信託したのは北陸銀行であり、北陸銀行の信託を引き継いだのが安田信託、及び富士銀行であり、現在のみずほ銀行、及びみぞずほホールデングである。 安田信託は山一證券の倒産により富士銀行の子会社となった。山一證券といえば日本タイプの乗っ取りを企んだ延命順作の息子が山一証券の副社長として飛ばしにより、会社を倒産に追い込んだ人物である。

上記の如く従って北国銀行の付けた白雲楼の登記は、全て無効である。本館の横の白い昭和39年建築した建物を主たる建物として、登記し抵当権を付けたとしても、昭和10年代に出来た主たる建物に登記は及ばない。また昭和39年の建物事態の登記もできない。何故なら土地所有権が無いからである。この様な物件を落札しても全く意味がない。このブログの写真の図面の右側の細長い建物が昭和39年に建てられた新築で、左側の大きな建物が主たる建物であり、昭和10年前後の大林組にとって建築された主たる建物である。 ついでに言えば、山一証券倒産時の担当省庁の担当局長長野某は、今回の西武鉄道不祥事の堤義明の顧問弁護士である。尚弁谷貞操は北国銀行と第一勧銀の子会社日本住宅ローン株式会社に各5億円、20億円の個人保証をしており、勿論こんな大金は弁谷貞造にはない。 私から騙盗った白紙委任状をその保証金の担保に提出したのである。父が私に設定した信託受益権を、辨谷家一族が私から取り上げようとしている。辨谷智子及び弁谷昌造と回収機構との和解調停書で示されている。

桜井清次、桜井芳忠、桜井繁雄、太田秀雄が日本観光の売却に印鑑を押して合意をした上で、会社を退任していいる。日本観光の借入金の過半はこの4人が主体であり、会社を売り飛ばし利益を私した共謀と収益移転の罪がある。


UFG銀行旧三和銀行と組んだ熱海起雲閣(日本観光)倒産の筋書き

2005年05月29日 10時29分42秒 | 三和銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

白雲楼の抵当権無効のプログで記したこと同じことを熱海起雲閣に於いても行っている。 即ち弁谷貞造が起雲閣の常駐支配人となり、ハザマ組と組んで増改築を昭和50年ころより行い、それに三和銀行が抵当権を設定、その後ノンバンクが60億の抵当権をつけたのである。その前に石川銀行が12億の抵当権を付けていたが、石川銀行は倒産その親会社である三和銀行が肩代わりをした。本来なら第一抵当権者の石川銀行が破産の申し立てをすべきそころ、その正当な抵当書類が無かったのであろう
そこで辨谷貞造と三和銀行が組んだのである
三和銀行と延命順作ですでに下地が出来ている
そこで正当な抵当書類を作ることである。
それを上記の如く辨谷貞造はハザマと組んで偽造文書を作り、三和が起雲閣の倒産を
申し立て日本観光の倒産に繋がっていくのである。
三和銀行が弁谷貞造と組んだ理由は、この写真の日本橋通りの角地の土地にある。ここには日本タイプの事務所等があり、戦後は更地となっており、延命順作が日本タイプの不祥事後もここの支配人となっていた。父の土地の管理会社山陽土地産業株式会社の管理権を持ていた弁谷貞造が、三和銀行と組んで、この三者が組んでこの土地を背景に起雲閣、日本観光の倒産を目論んだのである。
北陽土地産業株式会社はこの付近一帯の地権者であったからである
結局のところ三和銀行が父の資産を管理していたので、三和銀行が日本観光の倒産に
手を貸さない事には、目論みは成立しないのである

このプログの写真は日本タイプの本社ショウルームや日本観光の前身北陽産業株式会社の本社があったところで、ここで日本タイプのビルが建つ予定であった。
今はUFG銀行の支店が一階に入っている。
この土地は昭和35年頃まで延命順作が支配人となって登記されていたところで、
延命順作は自分の大好きなパチンコ小屋を建てて、楽しんでいたところである。
延命は闇の世界との繋がりが強く、野心に燃えていた。
また旧民政党の残党の資金源になっていたのだ
このため彼は終身を掛けて奥能登にいながら、日本観光、日本タイプを倒産、売却に追い込んで行くのである。


北国銀行の白雲楼の抵当権設定の無効について

2005年05月26日 06時26分19秒 | 北国銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

白雲楼は北国銀行の競売申し立てにより、競売に付されている。白雲楼は昭和7年頃から昭和15年頃まで掛かって建築されたもので、父は大林組との正式な契約書、図面等は破棄したとして残していなかった。 登記図面が提出されたのは、昭和39年になってからであり、実質の本館ではなく、父の死後、経営を引き継いだ桜井清次、桜井能唯、桜井繁雄等が、本館の横にくっ付け新館を建て、この新館を本館として実質的な本館である旧館を隣家として、図面を提出抵当権の設定を行なっている。日本観光の主力取引銀行である第一勧業銀行は、抵当として一億を設定しているが、それも興能信用銀行が引き継いでいる。昭和59年になって第一勧業銀行の子会社株式会社住宅ローンサービスが、弁谷貞造の個人保証で20億円抵当権を設定している。何故弁谷貞造かといえば、父がその不動産管理会社である、北陽土地産業株式会社を弁谷栄に贈与して管理を任せていたからである。弁谷栄は昭和29年に亡くなっているので、その息子である弁谷貞造がその管理を引き継いだのである。 その後桜井能唯が日本観光の株式を過半数不当な方法で、搾取いわば騙し盗り、いわば横領であるが、その株式を売却する為に、ノンバンクから60億の抵当権を設定、その金を懐に入れ栃木県の観光会社に会社を売却したのである。この経緯に付いてはこれまでに述べて来たとおりである。その間に北国銀行が5億ほど抵当権を設定している。しかし抵当権法から主なる建物である本館を隣家として、昭和39年に建てた隣家を主なる建物にした場合は、抵当権は本来の主たる建物に及ばない。これは抵当権を設定する銀行が最初に調査すべきことであり、いくら抵当権を設定しても無効である事は判っているはずである。。 この写真でいえば一番奥がプールで、その手前に白い建物が本館(外観はスペイン風の茶系の瓦葺きに見えるデザインとなっている。)にくっ付いて,ヘバリ付くように建っているのが昭和39年に建てられた新館で本館の隣家である。それを主客逆転して登記がなされている。この航空写真は平成8年頃のものであり、白雲楼の建物の堅固性をしめしている。ただ付属建物で昭和39年に建てた違法な破壊のひどい建物と崖淵の一部の建物のみ壊せば十分である。


岡田啓介主相、福田耕、迫水秘書官

2005年05月25日 09時03分45秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

この写真はお昭和10年の岡田内閣時代のもので、岡田啓介氏を右にその左は、二人の秘書官で真ん中の人物は福田耕氏で後に日本タイプライターの社長となり、通信技術に詳しく、当時の日華通信株式会社の社長でもあった。 同氏は戦後の日本タイプライターの労働争議の時に社長を辞任、昭和29年頃、日本電話公社か別れた国際電電株式会社の社長になった人である。日本タイプライターは前にも述べた様に、タイプと通信が一体となる装置を開発し、日本軍の情報収集に活躍していたことは以前に述べたとうりである。 このような関係で福田氏は日本タイプライターの社長になったのであろう。しかしこれには裏があって父と岡田啓介氏は、東条内閣打倒のため一緒に戦ったのである。この写真の一番左は、迫水秘書官で、同氏も東条打倒に活躍した事は有名であるが、父の事は表に現れていない。 麻布の桜井邸で東条内閣から次の内閣に引継ぎが行われたが、これを知る人な少ない。父は何事も表に現れることがなかった。 日本タイプライターに於いても同様で、父の努力がなければここまで和文タイプの発展はなかった事は確実である。 ところがキャノンに買収された日本タイプの歴史の中に、父の偉大さの一言の言及もない。莫大な日本タイプの資産を濡れ手で粟をつかむ様にして取得しているにも拘わらずである。 話は元に戻るが、岡田啓介氏の長女が迫水秘書官の妻になったひとで、「私の生母」のプログの写真の中の左から二人目、私の母の隣の人である。 岡田啓介氏の長女迫水万亀夫人は母が嫁ついでいた三條西家の香道再興にも一役かったとゆうことである。三條西家は室町時代より荘園を能登に持ち、天皇より香道家としての役割を担っていたのであるが、戦国時代より以降香道家としての家元が途絶えていたのである。私の母が三條西家に嫁ついだころの昭和22年12月に三條西公正氏が香道の家元として再興されたのである