財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
私の大学時代学校の図書館で、私の母である三條西治子と出会った不思議な出来事を話した。次に山階芳麿氏との出会いを話した。これは私の母が私との親子の名乗りをあげたいという願いに対して、弁谷ハシがとった方法である。私の反応を知るため誰か観察人をおいて私と母の出会いを計画したのである。こうゆう事があることを予期して、鼻の手術を受けさせ脳を破壊したのである。であるから弁谷ハシは私が記憶喪失にあることをしっており、私が母を思い出すことがないことに自信があったのである。また私が小さいときから弁谷栄に頭を叩かれ続けられ、学校では精神薄弱児と先生より思われていた。弁谷栄が私の頭を色々な物で殴る時はお前が悪いのではない、お前の頭が悪いのだと言っていた。しかし中学3年頃より頭は回復傾向にあり、高校に入ってから頭が陥没してきたのである。頭に溜まっていた血が流失したので起こったのであろう。頭を叩かれ脊髄湾曲症になったこともあったのは既に述べた。しかし高校2年の鼻の手術の際の頭蓋骨の強打は酷い衝撃を与え、私の精神構造を完璧に破壊したのである。 私が大学の図書館であった3人は、三條西夫妻と久邇氏であった。久邇氏は皇后陛下の甥であり、私の母は皇后陛下の妹の後添えである。つまり三條西信子様の跡を継いでいたのである。久邇氏はまだ若く、堂々とした体格と威厳があった。私は大学卒業後は大阪の貿易商社に行きたかったが、弁谷ハシは学校に話して就職の世話をしてもらえなかった。学校側は就職先があるなら学校の就職を遠慮するように言われた。 私はハシの弟が取締役をしている日本タイプに入れといううのである。当時は就職難で結局日本タイプに入ることになった。私は過去を忘れていうから、父の会社といううことは全く頭になかった。ハシの弟の桜井清次の会社というう概念であった。私が父のことを思い出すのは、日本タイプに入って2年目ぐらいであったろう。そこでハシに、父の遺言状が必ずある筈であるから、それを見せて欲しいと言うと桜井清次と相談してくるから、としたが相談後遺言書にはお前の名前は出てこない。皆他人のことばかりで会社が倒産したらどうしろ、こうしろと書いてあだけである、といううことだった。その後日本タイプを辞め、桜井清次のガレージを改造した部屋から追放される。 それまでに色々なことがあったが、久邇氏の家が近くにあり、時々桜井清次の処に来ていたようである。つまり私と母のことである。私が母のことを忘れているので、会わせて欲しいと頼みにきたようである。清次の妻が話していた内容からその様な事であったと思う。清次の妻が久邇さんが度々見えたと話すと、清次はあの人には何回も駄目だと言ってあるのに、と怒った口調で妻に話していた。何故私の前で話したかと言えば、久邇氏が私と会っていないか確かめたかったからであろう。 その後清次の後見人である堤康次郎氏が久邇カントリークラブを作り、久邇さんのご機嫌をとったのであろう。