白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

上戸の長者竹端仁作(7)益谷秀次、堤康次郎

2007年04月15日 12時28分46秒 | 堤康次郎

父が亡くなった昭和26年2月11日以降その年の春頃であったが、父に関する怪文書が出回ったのである。 その内容は 1)父が若い頃東京で松平家にか家扶として仕えていた時のことである。 松平家とは会津若松藩の殿様である。 ここには後に秩父宮妃となられる信子妃がいられた。父はこの信子妃に懸想したと書かれていた。 信子妃は日本タイプライターの専務の娘に何か似た雰囲気があったようである。父と柳田専務は従兄弟同士のあいだがらであった。これは私の判断であるが、血縁的に近いものを感じたのかもしれない。 また父がこの松平家に養子にったと言うことがあったので、そういゆう感情を抱いたのか、全くデマの類なのか判明しないが、いずれにしても、他人の父に対する悪意を喚起させる意図から発していることは明白である。2)大正の終り頃、父は一回衆議院選に出なかったことがあった。そのとき佐藤實氏を代われに民政党に推薦したのである。 佐藤氏は能登産業銀行を経営していたが、昭和初年の経済不況で倒産に追い込まれた。(日銀金沢支店による能登産業銀行に対する補償法による特別融資金がなっされ、担保物件が提出されたが、その後昭和6年解散する事になり、父は地元のために担保物権を買い取った。地元の宗玄酒造の原水である白山や喜兵衛ドンとなった建物及び能登鉱山の山林等50万坪等である。それらは父の名義にすることなく、地元の産業の発展のため父が取得したもである。ただ喜兵衛ドンとなった建物だけは私の名義にするように当時の名義人米村為八郎氏と父の約束であった。その建物の元の持ち主が遊蕩の挙句破産したので、自分の子孫に教訓として残したかったのである。)その後父は昭和初年に再び立候補するが、佐藤實氏と 選挙地盤を二分して、各地盤から立候補したのである。 この父が佐藤氏を利用して自分の選挙地盤を守ったが、佐藤氏はその為金を失い破産したと言うようなことが書かれていた。 そのときは二人とも選挙に当選したのであるからその非難は 当たらないと思う。むしろ佐藤氏は政友会から勧誘で、民政党から政友会に 鞍替えしたのである。 その原因は佐藤氏の経営する銀行の救済を政友会が餌に 鞍替えさせたのである。 いずれにしてもこのときのシコリが残っていたのか、こんな記事が書かれたあった。 父と絶えず対立候補であった政友会の益谷秀次氏側から このデマが流れたのではなかろうか? 益谷氏は弁谷家とは縁戚関係があり、父の死後は皆益谷派に流れ込んだ為である。 私の鼻の手術を執拗に迫った浜谷徹雄も益谷派の派閥に入り込んでいた。竹端作や弁谷栄も同じである。 益谷と堤はここで手を組んだのであろう。

 3)父の妹であるが実は戸籍上は従兄妹となっていた当時 は野本姓であったが、父はこの妹を織田信長と同じ様に自分の妹の 嫁入り先を政争の具に利用したと言うのである。当時能登は政友会一色であった。 その中で民政党から出ることは並大抵の事ではなかったろう。そこで父は自分の選挙地盤のため妹を犠牲に利用したと夕内容であった。自分の妹を四回も相手を変えて結婚させたというのである。 真偽の程は不明であるが、当時は普選で一般の人にも選挙権が与えられ,政友会一色の能登では、買収や違反が盛んで大変であったらしい。当時竹端仁作も佐藤実氏の銀行に投資しており、父に助けられた訳であるが、父の死後は父を裏切った。 ハシに私を的に虐待することを命じた竹端仁作は益谷と堤と共同で、謀略を働いたのである。父の妹の話もその作戦である。妹の子供で日本観光を倒産させた桜井清次は益谷と同じ宇出津の出であり、話が通じたのである。この写真は吉田首相を中心に、益谷と堤がお互いに取り入っていたことを示している。益谷の秘書をしていた辻女史がいまだに中央の政界、財界、官界に幅をきかせているのも、すべてこの写真がその出発点を示している。桜井清次はよく竹端家に隠れて行っていたのだ。この写真の二人と桜井清次の繋がりが明らかである。従って辻女史や浜谷徹夫との繋がりがあったのである。

この様な背景で、仕返しが私の一身に掛かり、を破壊計画が実行されたのである。



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