財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
以下の回想文は財団法人カナモジカイ理事長松坂忠則氏より頂いた。 国語問題の先達としての先生日本の文字が、学びにくく、しかも事務能率上欠陥が多いということは、すでに古くから心ある人々の、注意をひいていたのであるが、しかし、進んでこのいわゆる国語問題を取り組む人はまれであった。桜井先生は、その、まれな人の一人であった。 桜井先生は星野行則氏と親交があった。星野氏は銀行家であったが、熱心なクリスチャンであり、日本のロータリークラブの草分けの人であった。桜井先生は、いううまでもなく熱心な仏教徒であられた。宗教上の立場を異とする二人が親しかったのは,一見奇異に見えるかもしれないが、奉仕の精神という点で共通しているといえよう。 その星野氏の奉仕活動の一つは、国語問題の解決ということであり、財団法人カナモジカイの創立者の一人であった。また桜井先生はやはりこの主張に共鳴され、とくに漢字制限によるタイプライターやカナモジの創業,製作に、星野氏を日本タイプライターの顧問に迎えて尽力された。 しかし、この仕事は、会社の目前の損益計算から見れば、ずいぶん迷惑なことであったらしいことを、わたしは会社の幹部の方から承って、きょうしくしていたものであった。 かういうわたくしは、独学者として、漢字の知識が乏しさゆえに苦労を重ね、一生この運動にこの運動に捧げることを決意し、カナモジカイ本部の職賓となり、いまもって、名誉職として奉仕している者である。 おおくの奉仕事業は、社会から感謝される、しかしこの運動は逆である。伝統破壊者として非難される、とくに戦時中は迫害はひどかった。当局から取りつぶしをうけるのは、きょうか、あすかとビクビクしていた。幸いにお目こぼしにあずかったのは、とくに、国務大臣としての桜井先生と、やはり同じ地位におられた下村海南先生(情報局総裁)のおかげだったと思う。 敗戦のあと日本は、民主文化国家として立ち直ることになった。それには教育の能率と事務の能率が先決問題になる。カナモジカイの大正9年の創立以来の四半世紀の苦節と、桜井先生のおかげによる機械化の努力が、ここに実を結ぶ時節を迎えたのであった。 だが、前途はまだまだけわしい。桜井先生のみたまの御加護を祈りたい。(財団法人カナモジカイ理事長) 以上の御回想文は昭和53年に頂いたものである。
残念ながらそれから数年後日本タイプライターは消滅の道に突入するのである。しかし日本タイプライターはカナタイプの創作に戦時中従事しており、カナモジタイプライターによる戦線からの情報通信の道を開いたのである。この電信装置、発信装置、受信装置は昭和14年に特許を取得している。この昭和14年に星野行則氏が日本タイプライターの取締役となられている。星野氏は大阪の実業家であり日本ロータリークラブの草分けである。 カナモジカイの創立社は山下芳太郎氏であり、住友財閥の幹部であり住友商事の事実上の創立者である。同氏が大正12年にアメリカのアンダーウッド社にカナタイプライターを発注し、現在のカナタイプライターのキーボードのJIS配列規格の基ななっている。現在のパソコンやコンピュターの入力機器となっていである。