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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

各界からの回想

2006年01月08日 11時52分53秒 | 日本タイプライター

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

以下の回想文は財団法人カナモジカイ理事長松坂忠則氏より頂いた。 国語問題の先達としての先生日本の文字が、学びにくく、しかも事務能率上欠陥が多いということは、すでに古くから心ある人々の、注意をひいていたのであるが、しかし、進んでこのいわゆる国語問題を取り組む人はまれであった。桜井先生は、その、まれな人の一人であった。 桜井先生は星野行則氏と親交があった。星野氏は銀行家であったが、熱心なクリスチャンであり、日本のロータリークラブの草分けの人であった。桜井先生は、いううまでもなく熱心な仏教徒であられた。宗教上の立場を異とする二人が親しかったのは,一見奇異に見えるかもしれないが、奉仕の精神という点で共通しているといえよう。 その星野氏の奉仕活動の一つは、国語問題の解決ということであり、財団法人カナモジカイの創立者の一人であった。また桜井先生はやはりこの主張に共鳴され、とくに漢字制限によるタイプライターやカナモジの創業,製作に、星野氏を日本タイプライターの顧問に迎えて尽力された。 しかし、この仕事は、会社の目前の損益計算から見れば、ずいぶん迷惑なことであったらしいことを、わたしは会社の幹部の方から承って、きょうしくしていたものであった。 かういうわたくしは、独学者として、漢字の知識が乏しさゆえに苦労を重ね、一生この運動にこの運動に捧げることを決意し、カナモジカイ本部の職賓となり、いまもって、名誉職として奉仕している者である。 おおくの奉仕事業は、社会から感謝される、しかしこの運動は逆である。伝統破壊者として非難される、とくに戦時中は迫害はひどかった。当局から取りつぶしをうけるのは、きょうか、あすかとビクビクしていた。幸いにお目こぼしにあずかったのは、とくに、国務大臣としての桜井先生と、やはり同じ地位におられた下村海南先生(情報局総裁)のおかげだったと思う。 敗戦のあと日本は、民主文化国家として立ち直ることになった。それには教育の能率と事務の能率が先決問題になる。カナモジカイの大正9年の創立以来の四半世紀の苦節と、桜井先生のおかげによる機械化の努力が、ここに実を結ぶ時節を迎えたのであった。 だが、前途はまだまだけわしい。桜井先生のみたまの御加護を祈りたい。(財団法人カナモジカイ理事長) 以上の御回想文は昭和53年に頂いたものである。

残念ながらそれから数年後日本タイプライターは消滅の道に突入するのである。しかし日本タイプライターはカナタイプの創作に戦時中従事しており、カナモジタイプライターによる戦線からの情報通信の道を開いたのである。この電信装置、発信装置、受信装置は昭和14年に特許を取得している。この昭和14年に星野行則氏が日本タイプライターの取締役となられている。星野氏は大阪の実業家であり日本ロータリークラブの草分けである。 カナモジカイの創立社は山下芳太郎氏であり、住友財閥の幹部であり住友商事の事実上の創立者である。同氏が大正12年にアメリカのアンダーウッド社にカナタイプライターを発注し、現在のカナタイプライターのキーボードのJIS配列規格の基ななっている。現在のパソコンやコンピュターの入力機器となっていである。

 

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白雲楼、起雲閣「日本タイプ」(37)再建整備計画(21)カナ文字タイプ

2005年10月16日 13時02分12秒 | 日本タイプライター

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(14)

父は戦前よりカナ文字協会の理事をしており、将来の日本語のカナ文字化について深く考えていた。戦時中は英文タイプライターの唯一の国産メーカーであった。戦争で英文タイプの輸入が止まったためである。戦後は京都工作機械株式会社で英文タイプやカナ文字タイプの生産そ行なっていた。しかしこれまでも述べた様に、延命社長はなんのやる気もなく、京橋の日本タイプの本店予定地にパチンコ屋を建て、パチンコに興じていたのである。当時はサラリーマン重役ゆう映画が流行っていたが、日本タイプや日本観光の取締役は正にその役に嵌りこんでいたのである。しかも会社の資産を食い物にしたことは会社えの背任行為である。さきのプログでも述べたように、日本レミントンえの会社には全く見向きもしなかったのである。当時はIBMがレミントンを追撃していて、日本レミントンの社員は根こそぎIBMに引き抜かれていったのである。IBM社は日本レミントンの状況を見てか、日本には合弁会社を創らず自ら日本に乗り込んできたので、どうしても日本レミントンの社員が喉から手がでる程欲しかったわけである。日本レミントンはそれを黙って見ていたのである。日本タイプの暖簾と和文タイプの独占的販売体制があったため、何の努力も無しにノウノウと経営が出来たのである。従ってカナタイプの将来性に気づかず、百年一日のごとき会社経営をし続けたのである。ブログの写真はコンピューターunivacである。


白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(25)再建整備計画(9)印刷機械

2005年09月09日 14時37分22秒 | 日本タイプライター

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(2)岸信介氏は私の父とは政治家、官僚の立場で極親しい間柄であった。特に東条内閣打倒の時は岸氏と父が一丸となって、打倒したものである。私がお会いした時は、政界から引退された頃と思う。戦後岸氏と一緒に巣鴨に収容された青木一男氏は昭和30年頃白雲楼にこられ私に会いたいとの事であったのでお会いした。その折父桜井兵五郎には大変お世話になったと挨拶された。しかし私には何で会いに来られたのかその意味が判らなかった。その時は既に記憶を喪失していたからである。青木氏は父がビルマから仏舎利を日本が受け入れる際の大東亜相であって、日比谷公会堂での遷渡式に日本側代表として出席されている。 日本第一号とされる日米合弁会社日本レミントンランド株式会社は、加納久朗氏がアメリカ側との折衝にたって斡旋したようである。同氏は日本レミントンランド株式会社の代表取締役に父と共に就任している。柳田良作氏は専務取締役であった。父の構想は印刷機とコンピューターの融合であった。当時日本タイプライターは日本で最初にオフセット印昨機や、製缶の印刷を発明した中島印刷機を合併していた。日本タイプは朝日新聞等に輪転機やモノタイプ等を納入して実績があった。戦後の日本は文化の発展の出版事業が有望であることは明白である。戦中は印刷事業は工作機械の製造に転向されていたからである。それが中島機械を合併した理由である。当時アメリカではレミントンランドのコンピューターが大会社や各省庁に納入されていた。日本にも入ってくる事は自明のことであった。当時の日本タイプの社内には私が社長になることに反対する勢力が多勢を占めていた。ここで柳田専務の馬鹿息子云々が出てきたものであろう。また日本タイプは日本の官庁等には絶大な信頼があった。それがアメリカのレミントンランドの日本タイプとの契約の継続を強く望んだ所以である。ブログの写真はオフセット印刷機である