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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

上戸の長者竹端仁作(12)益谷秀次、堤康次郎

2007年05月20日 10時26分53秒 | 堤康次郎
この写真の中にもう一人父の知人が居る。 つまり吉田茂である。彼を囲むように二人がいるのがなんとなく暗示的である。 父は戦後は財界においては群を抜いて一位に位していた。 日本の戦後経済の源は父より始っしたほどである。 財界の主だった人は必ず父をたずねたのである。   それは敗戦に終止符を打つ内閣に居たことと、戦時経済の支柱を支えていたからなのである。 郷誠之助亡き後は父が財界の隠れたドンであったのである。 吉田政権えの援助は言うまでもなく、対外的にも外交ルートを維持してたのである。  特に当時の蒋介石政権は日本に対して大変強行な姿勢であったが、自分の麻布邸や起雲閣を提供して旧交を温めたのである。 また日本タイプビルや白雲楼も米軍の慰安設備に提供、米第八軍司がマッカーサー元帥に先立ち日本に上陸したのだが、米第八軍は金沢の白雲楼に駐留したのである。 白雲楼は米第八軍の保養所となった。 50メータープール始め、乗馬やゴルフ場を造り、大食堂では 宮本三郎の描く日本の四季を描かせ、アメリカ人軍人から大好評をはくしたのである。   父の主治医は武見太郎であり、吉田茂とは牧野伸顕を通じて親戚の間柄でたあったから、政治的バックアップは出来たであろう。  父は昭和26年2月11日亡くなるが、もう二三年生きていたら私は鼻の手術を受けるこはなかったろう。 私は本来父の妻鈴子のもとで暮らすことになっていたが、鈴子が昭和18年に亡くなり、私は昭和26年には金沢の桜井清次宅から高校にいくことになっていたのである。 私の戸籍も当然裁判により父の子として判決が確定していたのである。 これが一瞬の内に毒薬により私の人生がかわったのである。   父の死後武見太郎より目の玉が飛び出るような治療費の請求が来たとのことである。 医者としての腕よりも、政治向きの資質があったようである。   この写真は父の死後のもであろう。 父の麻布邸をドイツ大使館として斡旋したとされるのが 堤康次郎であり、保証人が益谷でな無かったかと思われる。 其れまでは堤と吉田茂は仲が悪かったのである。 其れを好転させたのが父の本邸のドイツ大使館えの売却である。  この土地は父個人の寺の土地であり、その相続人にしか売却は出来ない。 個人の寺を宗教法人にしたのが、竹端仁作一派であり 益谷なのである。中央政界や石川県会に力のある益谷ならでは出来なかったであろう。  父は当時政界より引退しており、この二人が躍り出ることが可能になったのである。 ここに私の不幸が二重となる因子が発生したのである。

上戸の長者竹端仁作(11)益谷秀次及び堤康次郎

2007年05月11日 14時31分57秒 | 堤康次郎
昭和初年から実施された普選からは、選挙は厳しさを増し
政友会と民政党との戦いは今では考えられない様相を呈した。
選挙権は一般成年男子に平等に与えられたが、その票を巡る争奪戦は眼に余るものがあった。ここに相手陣営の中傷が流布されるようになった。
父が亡くなったときの怪文書はその一端を表している。
父の地盤は政友会一色であり、父の友人の布施丑造氏も政友会に属していた。
 父は大隈公との関係から民政党として出馬することなり、益谷秀次との政治的ライバル関係が続くことになった。
 東条英機内閣時代は政党は解体して一本化したが、
父は民政党最期の幹事長として、政友連合に反対していたが、時の本流には抗しきれず、民政党を解体する羽目になった。政友会の領袖前田米蔵一派と対立し、反東条派として対立していた。
この両派な対立の仲立ちをしたのが、国策研究会の主宰者である。
 一方益谷秀次は政界ろ黒幕辻嘉六の秘書をしており、戦後は自由党を創立資金を提供したことになっている。
父は日本進歩党を前田米蔵氏と立ち上げたが、追放となり政治には直接関与出来なくなった。
戦前の政友会系と民政党系が後に合同して、自由民主党となったが、益谷秀次は吉田、岸、池田、佐藤内閣の要職を占め戦後の政界の黒幕的存在であった。一方吉田茂に取り入った堤康次郎は戦後政界における存在は、益谷秀次に比して影が薄い。金が掛かる政界に余り深入りする必要が無くなたのである。
一方益谷には金弦があった。
日本観光を倒産させた桜井清次は益谷と同じ宇出津の出で、かって清次は私に向かって、一度政治に足を突っ込んだらお終いだと漏らしたことがあった。
つまり金をセビラレテ居たからであろう。

上戸の長者竹端仁作(9)益谷秀次、堤康次郎

2007年04月28日 15時29分44秒 | 堤康次郎
前回では国立金沢病院で白昼堂々私は鼻の手術から脳天を強打されたことを話した。
また鼻の手術を執拗に私が高級生より誘われ、まさか国立病院で上記のことが行われることは想像だにしなかったのである。
この手術の経過については以前のブログで記述した。
上記の様に国立病院でしかも種村院長の指示のもと、私の手術が行われたと言うことは、公的な政治的力が背景にあったことを意味する。
いくら院長とはいえ免許のない医師を使って、私の手術を行うとは尋常ではない。
しかもこの院長の葬儀は厚生省葬である。

また私の母の当時皇后様のお付で宮城にいたことからして、政治的背景があきらかである。

この政治的背景は益谷秀次、堤康次郎を考えることはそれまでの経緯から当然結論つけられる。
勿論日本観光を倒産させた桜井清次、桜井能唯や弁谷家一族が関係していたことは云うまでもないのである。

この写真は人間の基本的行動の根源である、大脳基底核,線条体等のあるところである。この部分は血管障害によるダメージを受けやすい場所であり、私の頭蓋骨を強打したのはこのダメージを起こすためである。
人間としての基本的な感情やそれと結びついた記憶、思考力を喪失したのである。


上戸の長者竹端仁作(7)益谷秀次、堤康次郎

2007年04月15日 12時28分46秒 | 堤康次郎

父が亡くなった昭和26年2月11日以降その年の春頃であったが、父に関する怪文書が出回ったのである。 その内容は 1)父が若い頃東京で松平家にか家扶として仕えていた時のことである。 松平家とは会津若松藩の殿様である。 ここには後に秩父宮妃となられる信子妃がいられた。父はこの信子妃に懸想したと書かれていた。 信子妃は日本タイプライターの専務の娘に何か似た雰囲気があったようである。父と柳田専務は従兄弟同士のあいだがらであった。これは私の判断であるが、血縁的に近いものを感じたのかもしれない。 また父がこの松平家に養子にったと言うことがあったので、そういゆう感情を抱いたのか、全くデマの類なのか判明しないが、いずれにしても、他人の父に対する悪意を喚起させる意図から発していることは明白である。2)大正の終り頃、父は一回衆議院選に出なかったことがあった。そのとき佐藤實氏を代われに民政党に推薦したのである。 佐藤氏は能登産業銀行を経営していたが、昭和初年の経済不況で倒産に追い込まれた。(日銀金沢支店による能登産業銀行に対する補償法による特別融資金がなっされ、担保物件が提出されたが、その後昭和6年解散する事になり、父は地元のために担保物権を買い取った。地元の宗玄酒造の原水である白山や喜兵衛ドンとなった建物及び能登鉱山の山林等50万坪等である。それらは父の名義にすることなく、地元の産業の発展のため父が取得したもである。ただ喜兵衛ドンとなった建物だけは私の名義にするように当時の名義人米村為八郎氏と父の約束であった。その建物の元の持ち主が遊蕩の挙句破産したので、自分の子孫に教訓として残したかったのである。)その後父は昭和初年に再び立候補するが、佐藤實氏と 選挙地盤を二分して、各地盤から立候補したのである。 この父が佐藤氏を利用して自分の選挙地盤を守ったが、佐藤氏はその為金を失い破産したと言うようなことが書かれていた。 そのときは二人とも選挙に当選したのであるからその非難は 当たらないと思う。むしろ佐藤氏は政友会から勧誘で、民政党から政友会に 鞍替えしたのである。 その原因は佐藤氏の経営する銀行の救済を政友会が餌に 鞍替えさせたのである。 いずれにしてもこのときのシコリが残っていたのか、こんな記事が書かれたあった。 父と絶えず対立候補であった政友会の益谷秀次氏側から このデマが流れたのではなかろうか? 益谷氏は弁谷家とは縁戚関係があり、父の死後は皆益谷派に流れ込んだ為である。 私の鼻の手術を執拗に迫った浜谷徹雄も益谷派の派閥に入り込んでいた。竹端作や弁谷栄も同じである。 益谷と堤はここで手を組んだのであろう。

 3)父の妹であるが実は戸籍上は従兄妹となっていた当時 は野本姓であったが、父はこの妹を織田信長と同じ様に自分の妹の 嫁入り先を政争の具に利用したと言うのである。当時能登は政友会一色であった。 その中で民政党から出ることは並大抵の事ではなかったろう。そこで父は自分の選挙地盤のため妹を犠牲に利用したと夕内容であった。自分の妹を四回も相手を変えて結婚させたというのである。 真偽の程は不明であるが、当時は普選で一般の人にも選挙権が与えられ,政友会一色の能登では、買収や違反が盛んで大変であったらしい。当時竹端仁作も佐藤実氏の銀行に投資しており、父に助けられた訳であるが、父の死後は父を裏切った。 ハシに私を的に虐待することを命じた竹端仁作は益谷と堤と共同で、謀略を働いたのである。父の妹の話もその作戦である。妹の子供で日本観光を倒産させた桜井清次は益谷と同じ宇出津の出であり、話が通じたのである。この写真は吉田首相を中心に、益谷と堤がお互いに取り入っていたことを示している。益谷の秘書をしていた辻女史がいまだに中央の政界、財界、官界に幅をきかせているのも、すべてこの写真がその出発点を示している。桜井清次はよく竹端家に隠れて行っていたのだ。この写真の二人と桜井清次の繋がりが明らかである。従って辻女史や浜谷徹夫との繋がりがあったのである。

この様な背景で、仕返しが私の一身に掛かり、を破壊計画が実行されたのである。


竹端仁作 上戸の長者(3)

2007年02月03日 15時02分09秒 | 堤康次郎
私は小さい頃より竹端家を訪れるのが習慣になっていた。
しかし預けられた家で虐待を打け、瓦で
頭を叩かれてより、痴呆状態に陥り今までの記憶を喪失してより、竹端家のことも記憶より喪失していた。
その後竹端家を訪れる頃になったのは
中学に入った頃であろう。
その頃弁やの分家より養子の話があった。私を養子に貰いたいと
分家の婆さんが度々弁や家を訪れた。
しかし弁や栄は拒否をしていた。
何故拒否したのかは言うまでもなく、私の父桜井兵五郎が私に残した財産があったからである。
その頃何故か、私の育ての母親ハシが
竹端家の爺さんの悪口を私に頻りに話してである。
竹端家けは子供がいたが、毒を飲んで自殺したと言うのである。
私はそんな事があったのかと初めて知った。
竹端の爺さんは私には養子の話しなぞしたことは無かった。
唯私が訪問するとこの欲深い爺さんは相好を崩して喜びを露にした。
弁や家に於ける私の待遇とは雲泥の差があることを感じていた。
しかし私の父が死んでより、事情が変ってきたのである。
桜井能唯の悪行
桜井能唯の悪行続き
桜井能唯は自分は佐渡の本間家が本家であるとした本を昭和41年に出版し、
私の父桜兵五郎は分家であるとして、
いわば自分が桜井兵五郎の正統な相続人であると、世間に発表したのである。実は日本観光を乗っ取るための方便であるが、如何にも歴史が証明したように権威図ける為、金沢大学の教授を使って本を出版したのである。

その証として能登喜兵衛ドンを父が私に残した仲谷家の建物を桜井能唯の生家の横に牽引して、新築として登記をし
能登塩釜の道具を並べ、珠洲市より記念物ろして指定を受け、日本観光と倒産させたのである。
白雲楼の株主