goo blog サービス終了のお知らせ 

白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(15)破産会社日本観光の会計監査について

2005年08月18日 10時40分09秒 | 三和銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

平成10年5月19日破産宣告の申し立てを日本観光株式会社坂上勝代表取締役が行なっているが予納金700万円を納付する事が出来ず、三和銀行が平成10年12月に納付して裁判がはじまったのである。平成11年1月12日で代理人が上申書を提出、代表取締役坂上勝が意識不明で入院中であり、誰も正確な経理状況の判るものが居ないので、限られた資金の中で早急に破産処理をして貰いたい。それで破産宣告は平成11年2月15日に出せれている。この間に破産者は700万の金が無かった事は考えられない。三和銀行は日本観光に多額の融資おして、自ら破産の申し立てを行い、その以前に熱海起雲閣の競売の申し立てを行なっている。三和銀行は白雲楼には一切抵当権を付けず、熱海の起雲閣のみ抵当権を設定している。系列会社の石川銀行には熱海の起雲閣の一番抵当権の順位を三和銀行が渡している。日本観光のメイン・バンクは三和銀行と勧業銀行である。三和銀行は29億6千万を日本観光に貸しているのである。系列の石川銀行が8億4千万円と合計 38億円を融資している。この二行は白雲楼には何一つ抵当権を行なっていないのである。破産会社の社長桜井宏明は三和銀行に30億の借金の肩代わりをさせた事で日本観光の取締役に取り立てられたと言う。昭和60年頃のことである。三和銀行は東京の神谷支店が取引先となっている。父の時代は勧業銀行の本店と三和銀行の東京支店が取引先である。なにも態々三和銀行の神谷支店と取引する必要はなく、昔から取引があったのである。三和銀行は渡辺忠雄氏が日銀より常務として戦後三和銀行にきてからの取引があり、日本タイプの取引銀行も三和銀行であった。 父は三和銀行より莫大な金をかり、旧債務を帳消しにし全国にあった工場を処分して、旧勘定を返済して尚含み資産が三和銀行の勘定に残っていた。当時銀行は信託業務を兼営していたから、旧債務の差し引き勘定が三和銀行に信託されていた。日本タイプは父の個人の資産で旧債権を処理をしたのであり、且つ資本金を十分の一に減資270万から4000万円に増資をして再出発したのである。従って三和銀行が大株主となっていたのである。しかし管理上そうなっていたのであって、実質は父が自分の寺である康楽寺の資産であり、三和銀行は父の信託に背いたのである。

三和銀行が父の資産を管理していた管理銀行であったのである。つまり三和と組めばなんでも出来るのである。
延命順作がいった会社をぶっ潰す事が出来るのである。

昭和60年代は日本観光は40億から50億の借財があり、もう貸してくれる銀行は無かったのである。そこで何故三和銀行が30億もの金を貸したのか、日本観光の経営状況がわからない筈はない。白雲楼に抵当権を付けないで,起雲閣のみに抵当を集中したのであろうか?また三和銀行、第一勧業銀行系の日貿信から30億の借り入れを行なっている。ここにブログの米田隆税理士が登場する。平成5年7月21日米田隆は日本観光の監査役として登場し、同盟の日本観光を設立する。この年の11月に穴水町で同名の日本観光が設立されている。監査役が会社の税理士であることは、問題がある。税理士は外部に委託するのが常道である。内部の役員が兼任する事は、取締役会の意向をどうしても受けるであろう。同名の日本観光株式会社をこの税理士の就任期間中に行なっている。しかも三和銀行、石川銀行、北国銀行から各8億円以上も借りて、ゴルフ場を作るとしている。これではこの時点で既に120億、金利を入れると200億以上になるのに、尚且つ30億近い金を借りて同名会社を立ち上げているのである。といううことは230億以上の負債を抱えている事になる。従って商法で規定する法人の公認会計士を入れて会計検査が行なわなければならないのである。このことについては取締役会に代表取締役が報告しなければならない。しかし代表取締役桜井宏明は商法で規定する上記の業務報告をする事もなく突然平成6年12月22日何の理由の説明もなく辞任する。また同時に他の監査役、取締役等桜井の名の付く者は全員辞任している。辞任した代表取締役桜井宏明はその間、別会社の同名の日本観光株式会社の社長をを兼任していた。監査役米田隆もその間桜井宏明とともに、同名の日本観光の監査役に就任していたのである。監査役米田隆は平成7年3月31日になって倒産会社の日本観光株式会社を辞任している。この時点では会社は230億以上の負債を抱え倒産は明白な段階を通り過ぎている。


白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(14)破産財団の日本観光の放棄

2005年07月27日 11時49分48秒 | 三和銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 日本観光の破産時の借り入れは、石川銀行8億4千5百万、日貿信29億6千万円、三和銀行29億6千3百万円で三和グループが合計67億3千8百万で、負債総額120億(別除権付債券のみの元金)約56%になる。第一勧銀系の株式会社住宅ローンサービス(現住宅金融債券管理機構)9億7千9百万,北国銀行 4億1千2百万,興能信用金庫6億8千4百万で20億7千4百万、合計の17%の内興能信用銀行の分 3千万円とあわせて合計13億4千万を弁谷貞造が保証している。その他タクトエース32億6千6百万、全体の27%で合計120億円となる。ブログの写真で示すように辨谷家専属の金沢弁護士会所属の中山博之弁護士から弁谷貞造の債権の(銀行保証)の届けが出ている。この様な多額の借財に弁谷貞造が取締役として承認したのであるから、債務保証をしないと会社の多額の借財を承認したことで刑事罰がかけられるところである。当時は弁谷貞造は代表取締役副社長であれば尚さらである。 昭和58年4月30日の決算書によると長期借入金が25億あり、その支払い利息だけで2億円を支払っている。当期利益が800万円である売上の売上高は17億円である約1.5倍の借り入れをしている。これでは会社の経営の行詰りは目にみえている。昭和59年に上記住宅ローンサービスから20億円を借り入れている。結局平成元年ころには40億以上の借財があったのである。これで平成2年に60億を借り入れたのである桜井能唯の偽の日本観光の株式の購入資金である。これで会社が倒産しないはずはない。熱海の起雲閣は熱海市に10億で破産管財人が売却したが、焼け石に水で白雲楼を丸裸にして美術品を競売し、白雲楼は破産管財人が財団から放棄したのである。負債が100億以上の場合は大会社に該当し、監査法人が入り会計検査をすべきところ破産管財人はその義務を怠り、破産財団から白雲楼を放棄したのである。
この金額は利息を入れていないもので、当時は金利だけで元金近くなっており、なほ同名の日本観光を30億借り入れて設立したのである。
会社は同名でも別会社そしているのである
別会社を作らないと金利をいれると200億円を超え、公認会計士を入れなければならなくなるので、どうしても別会社の日本観光を作る必要性があったと思われる
それに三和銀行が手を貸したのである、つまり資金の融通をしたのである。
融通したとゆうか父の資産を預かっていてカッテに使い込みをしたと言ううに過ぎない


UFG銀行旧三和銀行と組んだ熱海起雲閣(日本観光)倒産の筋書き

2005年05月29日 10時29分42秒 | 三和銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

白雲楼の抵当権無効のプログで記したこと同じことを熱海起雲閣に於いても行っている。 即ち弁谷貞造が起雲閣の常駐支配人となり、ハザマ組と組んで増改築を昭和50年ころより行い、それに三和銀行が抵当権を設定、その後ノンバンクが60億の抵当権をつけたのである。その前に石川銀行が12億の抵当権を付けていたが、石川銀行は倒産その親会社である三和銀行が肩代わりをした。本来なら第一抵当権者の石川銀行が破産の申し立てをすべきそころ、その正当な抵当書類が無かったのであろう
そこで辨谷貞造と三和銀行が組んだのである
三和銀行と延命順作ですでに下地が出来ている
そこで正当な抵当書類を作ることである。
それを上記の如く辨谷貞造はハザマと組んで偽造文書を作り、三和が起雲閣の倒産を
申し立て日本観光の倒産に繋がっていくのである。
三和銀行が弁谷貞造と組んだ理由は、この写真の日本橋通りの角地の土地にある。ここには日本タイプの事務所等があり、戦後は更地となっており、延命順作が日本タイプの不祥事後もここの支配人となっていた。父の土地の管理会社山陽土地産業株式会社の管理権を持ていた弁谷貞造が、三和銀行と組んで、この三者が組んでこの土地を背景に起雲閣、日本観光の倒産を目論んだのである。
北陽土地産業株式会社はこの付近一帯の地権者であったからである
結局のところ三和銀行が父の資産を管理していたので、三和銀行が日本観光の倒産に
手を貸さない事には、目論みは成立しないのである

このプログの写真は日本タイプの本社ショウルームや日本観光の前身北陽産業株式会社の本社があったところで、ここで日本タイプのビルが建つ予定であった。
今はUFG銀行の支店が一階に入っている。
この土地は昭和35年頃まで延命順作が支配人となって登記されていたところで、
延命順作は自分の大好きなパチンコ小屋を建てて、楽しんでいたところである。
延命は闇の世界との繋がりが強く、野心に燃えていた。
また旧民政党の残党の資金源になっていたのだ
このため彼は終身を掛けて奥能登にいながら、日本観光、日本タイプを倒産、売却に追い込んで行くのである。


渡辺忠雄氏の思い出

2005年05月03日 23時28分14秒 | 三和銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

渡辺忠雄氏=元三和銀行頭取、UFJ銀行名誉会長、よみうりカントリークラブ初代理事長 (読売新聞) - goo ニュース 今から数十年前に渡辺氏に手紙を出した事があった。同氏は病気で伊豆に静養中との事で、私の実父のことで交友のことを聞いたのであるが返事は頂けなっかた。あれから30年ほど経っているが、最近同氏が亡くなられたのを知った。私が40歳くらいのことであった。同氏はそのころより、今日までマスコミで話題にされることを避けていたようであった。私の実父は72歳で昭和26年になくなっている。私が16歳のころで、54年前であった。私も実父の歳に近くなっている。同氏は106歳との事。時の経つのが早いものである。
私は当時父の生誕100年を記念して出版をきかくしており、その準備中であった。
特に日本タイプとの関連で聞きたったのである
氏の自宅宛にだしたのであるが、何故か銀行から断りの電話があった。
何か聞かれると具合が悪いことでもあるのだろう。
案の定日本観光が三和銀行の融資の過剰で、倒産に追い込まれた
当時は延命順作も生存していたから、延命の言に従ったのであろう。
真に残念なことであった
ただいえることは三和銀行は戦前は父の属する民政党の系列であったので、
父の死後は政治資金の問題が絡んでいたのであろう。
後述する延命順作には頭が上がらなかったのであろう