goo blog サービス終了のお知らせ 

白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(23)再建整備計画(7)七尾造機

2005年09月07日 10時52分12秒 | 七尾造機

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

昭和20年海軍の要請により、日本海沿岸の石川県七尾市の七尾造機株式会社を吸収して三菱重工業株式会社は、七尾工作部を設置し、伏木機械製作所を買収敦賀工場を設置、七尾工作部の管理下に置き、日本海方面の船舶建造及び修理能力を確保、七尾造船所は日本海方面におけるわが国有数の造船所で、陸上機械の製造等も行なっていた。プレスコンクリート製枕木の工業化に成功、したので、昭和27年3月1日七尾造船所は閉鎖された。 昭和24年12月三菱重工業七尾造船所として独立、タイ向け370トン貨客船の二隻を建造していたが、昭和27年3月に東日本重工業株式会社と桑原用次郎の二株主を中心として東日本重工業は現物出資、資本金5千万でピーエスコンクリート株式会社が設立された。その後東日本重工業より三菱セメント株式会社が株式を肩代わりして、その後三菱建設株式会と合併株式会社ピーエス三菱として現在に至っている。 桑原用次郎氏は神戸の古鉄の業者で、戦中戦後の鉄鋼不足の際、日本タイプも相当買い付けをしていた。戦後日鉄が分割され八幡製鉄時代に八幡製鉄の納入業者をしていた。稲山社長の時代同士の親戚の者が、桑原用次郎氏の会社に出入りしてこのくず鉄会社を乗っ取ったという話を聞いた事がある。桑原用次郎氏はピーエスコンクリートの株を売却、ピーエスから手を引かざるを得なくなったようである。これには尾ひれが付いて、右翼が騒ぎたてたもので、延命順作が能登でゴルフ場を開設する際右翼の口封じに莫大な金をはらったとか噂が流れた。稲山氏や渡辺忠雄氏が延命順作と能登にゴルフ場を建てた頃のはなしである。延命順作は戦後の闇の世界にも顔が広かったようである。延命順作が日本タイプの社長になったときは、日本タイプの大株主の七尾造機株式会社の名前は消えていたが、内状は先のブログで説明した通りである。 このブログの写真は七尾造機株式会社即ち三菱重工業株式会社の七尾造船所のあった処を示している。


白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(22)再建整備計画(6)七尾造機

2005年09月06日 11時00分06秒 | 七尾造機

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

七尾造機株式会社の財団化について(2) 戦後鉄道の枕木が木材よりPSコンクリート化されたのが、この能登の七尾造機株式会社の工場施設より実現したのである。この施設は昭和20年4月三菱重工に合併されたが、戦後三菱重工は三分割され東日本重工業になりその管轄下にあったが、経営が苦しくなり閉鎖の危機を迎えていた・しかし七尾造機株式会社の施設は工場財団として所有権保存が昭和19年になされており、当時よりpsコンクリートの研究がなされており、七尾造機株式会社の施設は東日本重工業に賃貸契約がされていたのである。一ヶ月一万五千円となっている。之を管理していたのは日本観光の破産申請を行なった北国銀行である。また七尾造機株式会社の社長は、日本観光の債権者である興能信用金庫の理事長であり、債券額は元本6億8千万、利息2億3百万円である。白雲楼の破産申し立てを行なった北国銀行の債権額は元本4億1千2百万、利息1億3百万円である。両方併せて元本11億、利息が3億円でる。いくら地方銀行とはいえ担保の保証も無く貸すことはないであろう。その担保の保証人とは弁谷貞造である。しかし11億もの担保を保証する資産は辨谷貞造にはない。この担保を保証するものは七尾造機株式会社の工場財団である。この資産は私の父桜井兵五郎の七尾造機工場財団であり、私が相続すべきものを弁谷貞造が私より白紙委任状をとっであるので、それを担保としたものである。日本で最初のpsコンクリートの工業化に成功したのは、父の立ち上げた七尾造機株式会社である。会社は三菱重工業、東日本重工業となり、東日本重工業と神戸の桑原用次郎の二社で日本psコンクリート株式会社が出来、現在の三菱psコンクリートと会社名が変わっているが、七尾造機株式会社は工場財団として、その工業所有権と共に賃貸されていたのである。 ブログの写真は鉄道のps枕木である。