財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
昭和20年海軍の要請により、日本海沿岸の石川県七尾市の七尾造機株式会社を吸収して三菱重工業株式会社は、七尾工作部を設置し、伏木機械製作所を買収敦賀工場を設置、七尾工作部の管理下に置き、日本海方面の船舶建造及び修理能力を確保、七尾造船所は日本海方面におけるわが国有数の造船所で、陸上機械の製造等も行なっていた。プレスコンクリート製枕木の工業化に成功、したので、昭和27年3月1日七尾造船所は閉鎖された。 昭和24年12月三菱重工業七尾造船所として独立、タイ向け370トン貨客船の二隻を建造していたが、昭和27年3月に東日本重工業株式会社と桑原用次郎の二株主を中心として東日本重工業は現物出資、資本金5千万でピーエスコンクリート株式会社が設立された。その後東日本重工業より三菱セメント株式会社が株式を肩代わりして、その後三菱建設株式会と合併株式会社ピーエス三菱として現在に至っている。 桑原用次郎氏は神戸の古鉄の業者で、戦中戦後の鉄鋼不足の際、日本タイプも相当買い付けをしていた。戦後日鉄が分割され八幡製鉄時代に八幡製鉄の納入業者をしていた。稲山社長の時代同士の親戚の者が、桑原用次郎氏の会社に出入りしてこのくず鉄会社を乗っ取ったという話を聞いた事がある。桑原用次郎氏はピーエスコンクリートの株を売却、ピーエスから手を引かざるを得なくなったようである。これには尾ひれが付いて、右翼が騒ぎたてたもので、延命順作が能登でゴルフ場を開設する際右翼の口封じに莫大な金をはらったとか噂が流れた。稲山氏や渡辺忠雄氏が延命順作と能登にゴルフ場を建てた頃のはなしである。延命順作は戦後の闇の世界にも顔が広かったようである。延命順作が日本タイプの社長になったときは、日本タイプの大株主の七尾造機株式会社の名前は消えていたが、内状は先のブログで説明した通りである。 このブログの写真は七尾造機株式会社即ち三菱重工業株式会社の七尾造船所のあった処を示している。