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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

近藤荒樹氏について(4)日本レミントン・ランド

2005年07月01日 10時13分18秒 | 近藤荒樹

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

近藤荒樹氏の息子荒一郎氏は日本レミントンランド株式会社の整理に付きチェスマンハッタン銀行より依頼を受けて日本タイプにはいったと近藤荒樹氏は私に云ったしかしこれ全くの嘘である。この爺さんは私を馬鹿にして嘘ばかりを云い続けてきたのである。金のなる木のあるところに寄ってくるのがこの種の人間の本質である。桜井家の内紛にかこつけて一儲けするつもりてあったろう。当時日本レミントン株式会社は日本最初の日米合弁会社であり、マッカーサー元帥がアメリカ本社の会長をしており、英文タイプや計算機等事機器の製造販売を行なっていた。これまでも話してた延命順作が日本タイプを乗っ取ろうとして、各種謀議をしていたのであるが、日本レミントンの社長も兼任しており、贈賄等を繰り返し日本レミントンの内情を知ろうとしていた。日本タイプの社長を父が私にすることを自分の部下達に依頼していた。日本レミントンも同じである。そこで延命順作は部下を使い、父の柳田村の役場に放火をさで、父の戸籍を消失させた。このことを近藤は知らない筈はなく氏は一儲けを企んでいたのであろう。私は残念ながら頭を破壊されたため、過去の記憶を喪失しており、私はこの爺さんに手玉にとられ面白がられていたのであろう。結局日本レミントンランドは日本タイプと袂を分かち、三井物産の産業部門のなかにはいってしまった。日本レミントンのアメリカの取締役はコンピュータ会社の日本ユニバックにうつり、日本タイプは排除されて、東芝三井物産が主力になって新会社が設立された。私の父が私を日本タイプの社長や日本レミントンの社長にして会社を発展させることを望んでいたのであるこうすれば日本タイプもこんなに早く身売りすることもなかったでろう。私を馬鹿息子にするために金澤国立第一病院で鼻の手術の際脳天をメスで叩いて破壊したのもこれ等のグル-プが背景にあってからである。たとえば近藤荒樹氏は日本テニスクラブの理事長であり、わたくしの鼻の手術をした金澤国立第一病院の種村院長は北陸地方の日本テニスクラブの副会長である。父の資産の乗っ取りを企んでいた延命順作の狙いの一つは元日本タイプの事務所があった一等地である。この日本タイプの事務所があったブリジストンの横の空き地に延命はパチンコ屋をたて自分も毎日パチンコに励んでいた。このプログの写真はパチンコ屋の建つ前の空き地である。現在の新八重洲ビルデングのあるところである。近藤荒樹も延命順作のような禿げたか一味であった。


近藤荒樹氏について(3)私に成りすまして父の麻布本邸の売却に立ち会った辨谷昌造

2005年06月30日 09時53分14秒 | 近藤荒樹

  財団康楽寺  西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である.。

近藤荒樹氏に会って尋ねたことは、私の母親のことである。私の記憶が未だ回復していなかったので母親のことを尋ねたのである。それに対しては同氏が女性のことは桜井さんは秘密主義で何も言わなかった。しかし弁谷家には子供を預けてあるときいてる。それは貴方であるかどうか判らない、と返事をした。しかし一般的に云うと近藤氏の言い方は間違っている。私が馬鹿にされたというか、誤魔化されたのである。弁谷昌造は東映の社長大川博氏の秘書をしていた事は既に話した。何故彼が入社当時から社長秘書になれたかは、弁谷貞造が東映との繋がりがあったので、その手ずるからである。大川氏はその著書の中で当時東横映画といわれたボロ会社に東京急行電鉄から社長として派遣された。大川氏が最初にした事は高利貸の近藤荒樹氏から借りた金を返して、経営を立直す事であったとその著書で書いている。東急と西武はその頃箱根戦争で争っていた。私の父はその争いの仲介に入り、西武、コクド、東急の株式を大量に買い、自分の寺康楽寺に寄付したのである。それで父の死後五島慶太氏が金澤まで来て康楽寺を買収しようと県庁などとかけあったが、失敗に終わった。しかし東急の大株主として存在感があり、無視できなかった。また東映の東京撮影所やテレビ朝日のある地所は、父の経営する会社と深く関係があった。弁谷昌造は昭和27年頃より麻布の父の本邸に住んでいたことは前のブログで話した。つまり私になりすまして父の屋敷に入居、堤康次郎の仲介に立ち会ったのである。これで近藤荒樹氏の言う意味が判る。国を相手に騙して父の屋敷の売買に関与したのである。これには勿論堤康次郎のお墨付きがあってのことである。弁谷昌造は私より二つ年上で昭和27年より東京の大学に入り、父の本邸に住民票を移しそこで学校に通っていたのである。当時は20歳で一人前になっていた。私は丁度その頃金澤市の国立第一病院で脳天を破裂される手術を受けていたのである。このような経緯があったので、わたくしが桜井兵五郎の子供であると彼に話した時真っ青に顔色を変え東京国立第一病院の富永精神医長につれていったのである。このブログの写真は現ドイツ大使館で、父の元麻布本邸で康楽寺に寄付してあったものである。


近藤荒樹氏について(1)同氏と日本タイプの関係 浜谷徹郎

2005年06月28日 10時15分22秒 | 近藤荒樹

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

このブログの写真は池田勇人氏の13回忌が東京プリンでホテルで開かれた時のものである。この写真の中には近藤荒樹氏はいないが、その息子の近藤荒一郎である。同氏は池田氏の長女を夫人としており、池田氏からも大変可愛がられたようだ。それで喪主の立場にあったのである。

田といえば益谷秀次であり、その使い走りが私を廃人にするため金沢国立病院で鼻の手術を執拗に誘った同級生の浜谷徹郎である。以下にその経緯を詳し述べてある)    写真の右側にいる人物である。中央は先のブログで述べた永井柳太郎の秘書竹田儀一の資金団体の政治家である福田赳夫氏で一番左が田中角栄氏である。福田氏は清和会を組織し、それがそっくりいまの森派に引き継がれている。現主相の派閥である。話は主題に戻るが私が近藤荒樹氏に会い、私の父のことを聞いたのである。同氏は丸ビルの将軍と言われた程、株で儲けた資金で高利貸しをしていて名を馳せた。同氏と父との関係は大正時代からで、日本タイプの大株主をして君臨していた。同氏の日本タイプの株式が父に渡り、日本タイプの発展となってゆくのでる。昭和33年頃同氏の息子近藤荒一郎氏が日本タイプの重役として入ってきた。丁度その頃アメリカのレミントン社がコンピュターの日本での販売会社を企画しており、その関係で日本タイプに株主として入ってきたものである。同氏は父親と同じく一ツ橋で出でアメリカの大学を出てアメリカのチェースマンハッタン銀行に勤め帰国、当時は衆議院議員であった池田勇人しの秘書をしていた。私の父は私を日本タイプの社長にすることにしており、父は自分の部下である日本タイプの重役に私のことを一人一人に頼んでいた。近藤荒樹氏もその一人で自分の息子を日本タイプの重役として送り込み、私のことを色々調べていた。私は17才の時金澤国立第一病院で鼻の手術の際、脳天を脳縦列の間から手術のメスで強打され記憶を失っていた。これによって私の人格の破壊が起こり、日本タイプ内では馬鹿息子と思われていた。父から頼まれていた重役達は皆ソッポを向いてしまった。当時は父の会社を乗っ取ろうとした石川県出の延命順作は社長の座を降り、本間虎治氏が社長たった。当時私が父の子供でる噂が社内に流れ、桜井清次を中心にその噂が私の耳に入らぬ内に私の仕事を移動させる事を人事課が発表した。私は営業か日本レミントンに移動することを希望したが、桜井清次は猛反対した為実現しなかった。私はその頃になってヤット父が桜井兵五郎である事を少しズツ思い出してきた。そこでわたくしは戸籍上の弁谷昌造に相談すると、顔を真っ青にして私を東京国立第一病院の富田精神科医長に連れて行った。鉄のおりの中に沢山の人がウヨウヨいたところであった。私は弁谷昌造を診察室から出るように主張し、診察室から追い出し、富永医長と二人で話をした。私の子供の頃の話や父の母の話をしたり、私の苦しい痛みをフロイドの本で解明しようとしたことをはなした。それで先生も私が分裂病でないことを確認したらしく,鉄の檻の中に入れられずにすんだ