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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(27)再建整備計画(11)富士銀行

2005年09月12日 10時58分26秒 | 富士銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(4)私の父の妻鈴子はバイリンガルな女性であったと以前のブログで書いたが、英語、フランス語を津田英塾や東和学院等に学び、当時外国の富豪が来日するとその通訳をした。その中にロック・フエーラ氏もいたようで、ダイヤモンド等宝石類を貰ったといううことである。そのせいかどうか分からないが、ロック・フエラー氏は大変な日本贔屓で、ニュウヨークで日本館と建て、日米交流に熱心だった。そうゆう関係もあったせいか、レミントン・ランドは日本タイプとの連携を熱望した。しかも日本レミントン・ランド株式会社は契約においてな20年存立することとなっていたのである。日本レミントンは従って昭和45年まで契約が存在していたのである。会社は富士銀行系となっても三井物産系となり、日本タイプと関係が無くなっても株主は父でありその相続人は私であるから、日本タイプの取締役等は日本レミントンを解散したくてもその手続きができなっかたのである。日本タイプの取締役はその事実を隠し知らぬ顔をしとおし続けた。富士銀行はその事実を知っていたろうが、日本レミントンの銀行となることによって、チェス・マンハッタンの日本総代理権を手に入れたのである。しかも日本タイプの倒産のお手伝いまでしてそ知らぬ顔をキャノンと一緒になってしているののである。踏んだり蹴ったりされたのは、私と父である。ブログの写真はロック・フエラーの孫が金澤市を尋ねた時の写真


日本タイプライターと日本観光の取締役議決権の喪失(2)

2005年05月22日 12時13分33秒 | 富士銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

先のプログで北陽産業株式会社が持ち株会社として、日本タイプライターを中心としてコンツエルンを形成していたが、戦後の持ち株禁止令で父の株式は各会社の経営者の名義株となっていることをはなした。 日本タイプライターは当初日本書字商会として、杉本京太氏の発明によりスタートしたのが大正6年であった。しかしその後菅沼タイプ、日輪タイプ等競合が激しく、またタイプの命である活字がなかなか旨く出来ず、また精密機械として完成するのが昭和10年頃である。父が昭和初年頃より日本タイプライターの社長となり、業績が飛躍的になびたのである。それまでは一台数百円する家が一軒買える機械はそう売れるものではなかった。 機械の改良に改良を重ね、活字の改良を日本亜鉛等の会社を傘下に収める事で可能となった。
昭和10年にはこのプログの写真の日本タイプビルが大林組により竣工されたのである。 こうした精密機械の長年の蓄積がら、工作機械、計測器,内縁機械、航空機等の関連産業に日本タイプが参入していくのである。
 前のプログの写真は、昭和58年当時の日本タイプの社長桜井繁雄が、業績の低下中日本タイプを建て替えたてたもので、昭和60年には父からの名義株を同社長がキャノンに売却、会社を売り渡した事は前に述べた。 
問題はこの時、日本タイプの親会社の日本観光所有の日本タイプ株や日本タイプ及び日本観光の経営者の持つ父の名義株(前のプログで話したようにこの父の名義株は康楽寺の本殿建築のため寄付を約したもの)を同時に、売却したことである。
それと日本タイプライターが持つ、日本観光が増資の際割り当てた日本観光の株式14万株
(日本観光の発行株式50万株の28%に当たり、それぞれの相手の会社に対する議決権を喪失している状況の下)を日本観光の社長桜井能唯が、自分の会社である江戸村の所有株とした。父が桜井清次や桜井能唯に経営を委譲する際に父の名義株1万6千を貸したのを自己のものとし、株合計25万5千株の日本観光の過半数の株式を取得したとして
日本観光株と提携と称した栃木県の観光会社が日本観光の不動産に抵当権を付け、高利貸しから借りた金を受け取り日本観光の株式を売却した。
 私の父が北陽土地産業株式会社を戸籍上の父に贈与したが、この会社が日本タイプの大株主で、戸籍上の兄が康楽寺の株の処分も同時に行ったのである。
しかも康楽寺本殿の建築地まで金澤市に桜井能唯は売却したのである。
このことは前のプログで述べた如く、父の相続人である私を廃人として、白紙委任委任状を騙しとった経緯がああった。
しかし父の遺言状を開示することなく、また私の意志を確認せずに銀行や信託会社が
父の遺言を実行を守らなかったのは当事者をしての任務を疎かにした義務違反である。
 金融機関としては戦前から安田銀行いまの富士銀行が主力で、三和銀行と第一勧業銀行が主力銀行に加わった。つまり戸籍上の兄が日本タイプ及び日本観光の株式売却、つまり両会社売却、倒産の重要なキー・パーソンなのであるが、上記の主力銀行が株式の売買に加わったことは云うまででもない。父はこの主力銀行の信託会社に株式を信託していたのに、父の遺言書を
守らなかったのは銀行及び信託会社の信託法違反ではないか!そうでなければ日本観光と日本タイプライター分離して売却は易々と出来るものではない。


日本タイプライターと日本観光の取締役会の議決権喪失

2005年05月21日 04時34分11秒 | 富士銀行

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私の父はそほ持ち株会社として、北陽産業株式会社があり、その下に日本タイプライター株式会社、中島印刷機械株式会社、東邦亜鉛株式会社、興亜鉱業株式会社、能登ケーソライト株式会社、七尾造機、北辰化学工業、京都工作機械株式会社、山科製作所株式会社、北陽土地産業株式会社,北陽林業株式会社、白雲楼等の会社があった。
その他満州の大連には大連日本タイプライター株式会社があった。また大宝組と組んだ能登石膏あり、当時では日本最大の石膏を産する鉱山であった。
 北陽産業は戦後は、日本観光株式会社をなり、石川県の金沢市郊外の白雲楼ホテルと戦後熱海の東武鉄道の根津嘉一郎の別邸を買いうけ、日本観光株式会社を設立した。北陽産業はその株式を各会社の重役名義とし、戦後のアメリカ進駐軍の集中は排除法をくぐりぬけた。もっとも父は個人の」資産は大東亜寺現在の康楽寺に寄付していたので(将来康楽寺の本殿竣工のため、日本タイプや日本観光の重役名義の株式は康楽寺に寄付を約し諸官庁より寄付の認可を得た公益財団であった。)問題は無かったのであるが、戦後のアメリカ統治と日本経済の疲弊からくる経済再建の必要のため名義を分散したのである。
プログの日本タイプビルは昭和58年頃建て替えたもので、戦前からメイン銀行であった
富士銀行時代のものである。
中島機械株式会社は日本で最初の製缶印刷を成し遂げた会社で、現在の新大阪駅前に広大な土地があり、昭和20年に日本タイプライターに合併吸収せられたが、西武鉄道やコクド等の資本的繋がりが深い会社であった。七尾造機は三菱重工業の日本海に於ける造船所となったが、戦後三菱が解体され東日本三菱重工となったが、仕事が無く分離独立して日本で最初の橋梁用のセメントで鉄道の枕木を作る会社となった。