
(昨日の続きです)
約1時間歩いて、母の実家の地元の小学校に着きました。電話をかけるだけの、ただそれだけのために1時間も道なき道を歩かなければならないのです。この時点で、今の若い人たちには驚きでしょう。ともかく電話をかけるということが半日仕事だったのです。小学校の電話機は職員室の外の廊下の壁に上の写真のように取り付けられていました。電話機の筐体は木製でした。明治29年に日本に導入された「デルビル磁石式電話機」(写真はYahooから引用)という種類の電話機に似ていますが、同じものかどうかは不明です。なにぶんにも56年も昔のことで私の記憶も曖昧なためです。母が左側にある受話器を耳に当て電話機の右側についているハンドルを回すと電話交換手が出てきます。母が交換手さんに、札幌の〇〇番に繋いでくださいと依頼すると交換手さんが繋いでくれて、相手が出ると「はい、お出でになりました」といって退場するという、そういう流れだったと記憶しています。私は当時満6歳でしたが、大人が電話をかけるという場面に立ち会った記憶の最初になります。この時、電話交換手という存在が遠隔地にいる父と私たち母子を繋いでくれる存在として強く私の印象に残りました。通話先の父はこの時、札幌市内にある勤務先の会社の支店か宿泊先のホテルかにいたと思うのですが、私が父と電話で何を話したかは残念ながら覚えていません。ちなみに昭和42年当時、国鉄八雲駅から札幌駅まで函館本線の特急(SLのC62が牽引していたのです!)で5時間くらいかかったような記憶があります。現代であれば特急北斗で2時間半くらいで行けるのですが・・・
これ以降、私が電話交換手を通して電話をかけた記憶はありません。いつごろ電話交換手という職業が(ほとんど)存在しなくなったのかは、私にもよく分かりませんが、電子交換機が普及し全国ダイヤル即時自動通話化が実現したのが1979年(昭和54年)だそうですから、その頃なのでしょう。小学校6年生の頃に読んだ少年少女向け読み物『宿題引き受け株式会社』(古田足日著/理論社/1973年)の中に1962年(昭和37年)頃にあった、電話交換業務自動化に伴う電話交換手の人員整理に反対する全電通(現NTT労組)の電電公社合理化反対闘争の逸話が出てきますので、1960年代前半から、この職業は減少していったのだと思われます。
以上は電話をかけるために1時間歩いたり、市外長距離通話を人の手を介して行っていたという遠い昔のお話ですが、当時のそういう暮らしの中でも母と祖父母は楽しく暮らしていたと記憶しております。