![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/e8/b3d0b8cc1ed43a728fff09849cecd633.jpg)
(昨日の続きです)
次に宗家の存続を支えた理由として、対馬の外部の環境について考えてみます。
元寇の時は鎌倉幕府から、倭寇の取締りの際は室町幕府から、文禄慶長の役の際は豊臣秀吉から、李氏朝鮮との国交回復の際は徳川家康唐という具合に、時の政権から宗家は頼りにされています。日本全体の覇権を握った存在から頼られるということは、安全保障には有利です。これは宗家の存続を支えたかなり有力な理由になるような気がします。そして、その理由を支えたもっとも大きな条件が李氏朝鮮からの宗家への信頼です。
江戸幕府は、島津氏の薩摩藩、毛利氏の長州藩、伊達氏の仙台藩のように日本の辺境に位置する外様大名を存続させています。いずれも鎌倉時代から長期に存続した大名です。家康から三代の秀忠までは、かなり有力な大名でもおとり潰しにしていますので(加藤氏、福島氏など)、これは不思議なことです。もちろん遠隔地まで大軍を派遣するのは困難だったという理由が大きいとは思いますが。ただ家康の頭の中には、有力な大名に日本の辺境の防衛を任せるという意識もあったのでしょう。参勤交代などで適度に経済力を削いでおけば江戸まで攻めてこられる心配も少ないですし。宗家に対しては、間違いなくこういう考え方で家康は支援したのだと思います。
上の写真は宗家が李氏朝鮮と交易を行った厳原港です。