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羽花山人日記

徒然なるままに

ルイセンコ

2024-05-21 19:13:31 | 日記

ルイセンコ

昨日の朝日新聞21面に、1978年5月20日の『天声人語』が再掲されていて、その中に「ソ連水爆の父」と呼ばれ、後に核実験反対を唱え、さらにスターリン体制を批判して弾圧された、ノーベル平和賞受賞者のアンドレイ・サハロフ博士のことが書かれていた。

この記事を読んで、アメリカのロバート・オッペンハイマー博士のことを連想すると同時に、一人のソ連似非科学者トロフィム・ルイセンコを思い出していた。

ルイセンコの名前を知っている人はもう少ないだろう。地方の農業試験場技師だったルイセンコは、春コムギの種子を低温処理する「ヤロビザツィア」と称する農法によって増収を得たということから英雄的に評価され、スターリンの支持を得て出世し、1965年に失脚するまで30年以上にわたってソ連科学アカデミー、ソ連農業科学アカデミーを牛耳って、3千人に及ぶ遺伝学者を弾圧した。

詳細は成書*に譲るが、「ルイセンコ学説」と称するものは、既存の伝統的遺伝学を「ブルジョア遺伝学」あるいは「ファシズム遺伝学」と決めつけて否定し、獲得形質の遺伝を主張するものであった。科学的根拠を欠く捏造されたデータに基づく彼の「理論」は、ソ連や共産圏において農業生産の停滞を招いた。

この理論にわたしが触れたのは、大学3年生の時だった。当時コミンテルンの影響下にあった前衛党のメンバーあるいはシンパの研究者が、「ルイセンコ遺伝学」に基づく理論を喧伝し、研究していた。学生サークルの交流会「全国農学ゼミナール」でも分科会が設けられていた。

わたしは文献を読み、研究報告を聞き、伝統的遺伝学者とルイセンコ遺伝学者の間の公開討論を聴いたが、どうしてもこの理論に納得できなかった。唯一それらしい実験結果は接ぎ木による接ぎ穂への台木の遺伝的影響で、「ルイセンコ遺伝学」の錦の御旗とされていたが、これとてもナス科の植物に限られ、環境による遺伝変異を実証するものとは思えなかった。(「接ぎ木雑種」による変異は、後に台木のDNAによる一種の形質転換で説明されている。)

「ルイセンコ遺伝学」は、ソ連におけるルイセンコの失墜、DNAの発見などによる伝統的遺伝学の進展などによって、急速に忘れ去られていった。わたしが納得できなかったのは、この似非学説を信奉し、喧伝していた研究者が誰一人として自己の過ちを認めないままに、遺伝学や育種学に「復帰」したことである。

政治的な「権威」によっていかに科学がゆがめられるか、党派などに属して教条を信奉することによって科学者の良心がいかに曇らされるか、学部から大学院に至る過程でそれを目の当たりにすることができ、わたしは貴重な経験を得たと思う。

そして、「ルイセンコ理論」をめぐる状況が、水俣病のような公害の問題、放射能汚染の問題などにみられるように、現在においても姿形を変えて存在していることに注意を払う必要がある。

科学的ということは、疑ってかかることを前提にする必要があるのではないだろうか。

2012年サンクトペテルブルクにて撮影

ソ連近代遺伝学の父、ニコライ・ヴァヴィロフ博士は、ルイセンコ一派によって1940年に農業科学アカデミー総裁の位置を追われ、シベリアに送られて1943年獄中で凍死した。世界中の遺伝学者、生物学者は深い哀悼の意を示し、ソ連に抗議した。彼の名前を冠したニコライ・ヴァヴィロフ記念全ロシア植物栽培研究所の玄関には、ヴァヴィロフ博士のレリーフが飾られている。

 

*ルイセンコ論争については何冊か読んだが、次の二つが優れていると思う。

中村禎里『日本のルイセンコ論争』みすず書房 1997年

ジョレス・A・メドヴェージェフ『ルイセンコ学説の興亡』 河出書房新社 1971

 

STOP WAR!

コメント (3)
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