パラグアイと日本
岸田首相がパラグアイを訪問した。2018年の安倍首相(当時)に次いでである。
巷で言われ、首相自身も述べていたように、南米で唯一台湾と国交があるパラグアイを訪問することで中台関係における日本の立ち位置を示し、同地に在住する日系移民を応援することが訪問の目的であったろう。
わたしは1981~82年、2001~02年の2回にわたってJICAの専門家としてパラグアイに赴任している。日本の無償供与によってシェイプ・アップした農業試験場の運営を助言し、試験研究を推進することが目的だった。最初の赴任では、荷ほどきしたばかりの試験器具を整え、試験研究計画の立案を助言することが主な仕事だった。2回目の赴任ではチームリーダーを仰せつかり、20年間続いてきたプロジェクトを総括し、終了することに当たった。
20年間のプロジェクトによって、ダイズとコムギの新品種が育成され、草地を畑地に改良する技術が開発された。Amistad(友情)と命名されたコムギ品種はブラジルやアルゼンチンにも普及する高い評価をうけた。それぞれの分野における日本人専門家と現地研究者との協力の結果である。
プロジェクトの実施は、日系移民の方々の助力抜きには語れない。通訳による現地の人々とのコミュニケーションの円滑化、自らの工夫で開発した米、豆腐、納豆、味噌などの食材の供給などなど、専門家たちの生活がストレスなしで送ることができた。
そして何よりも、日系移民の方々が築き上げてきた日本人への尊敬と信用が、プロジェクト実施の基盤に大きく寄与した。
日本からパラグアイへの移民は、主として1930年代と60年代の2回実施された。いずれも農業移民であり、亜熱帯多雨林の開発という過酷な仕事に挫折して、80%が移住地から離れたといわれる。わたしが2001年に訪れたときは、残っている方々は移住地や都会でそれぞれの地位を確保して暮らしておられた。
日系移民は、農耕地の拡大、ダイズや野菜などの新作物の導入によって、パラグアイ経済の発展に大きな役割を果たした。スーパーマーケットではNIKKEIの商標を付けた野菜が売られていた。全人口の0.1%にも満たない日系移民の農産物は、パラグアイ輸出総額の5%を占めている。
わたしがおつきあいした移民の方々は、日本人としてのアイデンティティーをとても大切にしておられた。移住に至る背景はそれぞれ複雑なものがあったであろう。時には「移民は棄民」というような言葉を吐く人もいた。故郷との断絶を感じる時もあっただろう。
今や日系社会は2世、3世が主役になっているだろうが、日本人としてのアイデンティティーは受け継がれていると思う。
30時間強のフライトでようやく到着する地球の裏のパラグアイで暮らす移民の方々のことに、わたしたちは時として思いを致すべきではないだろうか。
ところで、今年のパリオリンピックで、日本のU23サッカーチームはパラグアイと相まみえることになっている。2010年の南アワールドカップで、日本はパラグアイと対戦し、PK戦で敗れベスト8への道を断たれた。今度はどうか。岸田さんはエールの交換をしてきたろうか。
プロジェクトが実施された地域農業研究センター
日系農協婦人部の方々が醸造した味噌
STOP WAR!