スヴァンテ・ペーポ (野中 香方子 訳)
『ネアンデルタール人は私たちと交配した』 文藝春秋 2015年
著者は今年のノーベル賞医学生理学賞の受賞者である。この本は原著が2014年,邦訳が2015年に出版されている。わたしは,出版された年に邦訳本を読んだが,著者のノーベル賞受賞の報を聞いて再読した。
1981年のエジプトのミイラからのDNA抽出に始まり,2010年のデニソワ人の核DNA解読に至る研究歴を,スヴァンテ・ペーポ自身が叙述したものである。あたかも推理小説を読むような楽しさを味わった。
スウェーデン生まれのペーポは,ウプサラ大学の医学部に入学して大学院に進み,ウイルスによる免疫機構の不活化を研究テーマにするが,15歳の時に母親と一緒に行ったエジプトに行った時以来の,古代エジプトへの憧憬の念から,指導教授には内緒でミイラからDNAを抽出してそれを複製する実験に成功し,結果を『ネーチャー』に発表し,世界的な古生物学者の知己を得る。
いわば一介の大学院生に過ぎない彼の論文が,論文審査が非常に厳しく,世界的に最高権威を誇る科学雑誌に掲載され,注目を浴びたところに,ペーポの才能と強運が萌している。
ウプサラ大学で学位を取得したところで,ペーポは医師になるべきか,ウイルス研究者になるべきか,現存しない生物の分子生物学的な研究を進めるべきかの岐路に立ち,古生物学を選ぶ。カリフォルニア大学バークレー校で絶滅したシマウマやカンガルーネズミの祖先種のDNAを解析して成果をあげる。
そうした業績から,講師や准教授の職を飛び越えて,ミュンヘン大学からの教授職のオファーを受け,1990年自分の研究室を持つことになる。
1993年に古代人の「アイスマン」のDNAを解析して,マスコミ的には大きな反響を呼ぶが,そのDNAは現代人のものと大差なく,分子生物学的に人類の進化を探るには満足できるものではなかった。そして,さらに古代にさかのぼって,絶滅人類のネアンデルタール人にターゲットを定めることにする。
ミイラや冷凍されているマンモスと異なり,材料は化石である。貴重な化石を損なうわけにはいかない。ごく少量の骨からDNAを取り出さなくてはならない。また,長い年月の間にDNAが化学的な損傷を受けている可能性もある。
さらに困難な問題は,サンプルの汚染である。PCRや遺伝子シークエンス技術の向上で,ごく少量のDNAを解析できるようになった。しかし,そのことが仇になってサンプルを扱った人の痕跡からのDNAが増幅される可能性がある。
ペーポ自身,彼が発表したミイラのデータが,コンタミによるものだったことを自己批判し,彼の研究の非常に大きな部分は,こうした汚染を排除する手段の研究に費やされている。
1990年代に,恐竜を含む絶滅生物からDNAを抽出し,解析したという報告が世界的な一流誌上で発表されたが,その大部分は汚染源のDNAを増幅したものであり,ペーポはそれを苦々しく思っている。
ペーポはマックス・プランク研究所に新たな研究の場を得て研究を進め,幸運にもめぐられて,2009年にネアンデルタール人のDNAを解読の成果を発表する。そして,われわれ人類の祖先がアフリカを出た時にネアンデルタール人と交配し,その結果ネアンデルタール人の遺伝子がユーラシア大陸の各地に分散していったことを明らかにした。
さらに,ペーポのグループはシベリアのデニソワ渓谷から発見された少女の化石の指の骨から抽出したDNAが,ネアンデルタール人に近縁の人類のものであることを明らかにした。このデニソワ人はやはり現生人類の祖先と交配して,遺伝子を残している。
ペーポは,古生物学という多くの知見を必要とするテーマの解析に,異分野の優秀な人材を集め,上手に組織化している。優秀なマネージャーでもある。
また,自身が得た結果の正しさについて,極めて厳しい態度で臨んでいる。自分たちが扱った材料を信頼できる他の研究者に送り,同じ手順によって同じ結果が得られることを確かめている。これは研究者にとって言うは易くして,なかなかできないことである。
このようにして,ペーポとそのグループは,従来は化石などの発掘物に頼ってきた古生物学において,DNAという強力な証拠に基づく手段を開発し,特に人類における進化の道筋を明らかにしたのである。
進化学者リチャード・ドーキンスがいう,「すべての生物はDNAの乗り物であり,それを自覚しているのは人間だけである」という言葉を思い出す。
STOP WAR!