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桜と絵本と豆乳と

心配という文字では届かない

2012年12月06日 | 読書
 『韓国が漢字を復活できない理由』(豊田有恒 祥伝社新書)

 正直、韓国への興味が高いとはいえない。
 この本は、漢字への関心という選択で手にとってみた。
 韓国通、親韓派であるらしい著者は、多様な観点から表題についてアプローチしているが、単純に言い切れば「日本憎し」ということにまとめられることが、なんとも普通であり、同時に残念だ。

 ハングル至上主義者の主張として、「韓国語の表記に適している」「文字の機械化に適している」「漢字の混用は歴史の歯車を元に戻すようなものだ.」という点が出されている。
 しかしそれらを論証することはなかなか難しいし、使い手の気持ち一つでどうにも変わる要素を含んでいる。
 
 言葉を思考言語と内的にとらえたときに、漢字の持つ日本からの影響を否定したい気持ちはわからないではない。
 けれど表現言語としての道具性を無視することはできないし、コミュニケーションを高めるために用いるのであれば、より合理的で、広がりのある使用選択が必要だろう。

 そういう寛容さを持てなかった半島の人々(実際には支配者層、指導者層だろうが)を残念に思うし、その虐げられた歴史の辛さも想像しなければならない。

 半島をめぐる我が国の状況として、例の「人工衛星」問題がある。
 諸国からの自制、中止を求める声に耳を貸さない民族(それは一部には違いないが)は、韓国以上に漢字アレルギー?が強いだろうが、それは「守る」ためであったことは確かだろう。
 守るべきものの存在の検討・吟味ができないことは、使用言語の問題が大きく関わっていると気づかされる。


 さて、半島をめぐる我が家の状況(笑)として、家族に韓流アイドル好きがいて、来週の休暇を利用して韓国へ出かけるという。
 空路が「人工衛星」の軌道と重ならない保障がどこにあるか、と思う。

 「心配」は、コクチョン、コッチョン、ゴッチョンというような感じで発音するらしい。
 もちろん、そんな声をかけたりしないが、漢字のままの心配の気持ちでは、かの国までは届かないのだろうか。