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桜と絵本と豆乳と

どの段階でデザインするか

2012年08月23日 | 雑記帳
 今週初め,授業のユニバーサルデザイン研究会の会長をしている桂聖氏(筑波大学付属小)の講演会があったので,県教育センターへ出かけた。

 その名称について興味はあった。しかし関連の書籍はまだ読んでいなかった。申し込んでから日にちはあったが結局目を通せずに,事前準備全くなしで聴くことになった。

 講演そのものについては,導入や内容構成など若干物足りなさを感じたが,まずは初級者篇というイメージで,ある程度の知識を得ることができた。
 サイト上にあるコンセプトがよくまとまっていると,後から確かめてそう思う。
 http://hwm8.gyao.ne.jp/kokugouniversal/concept.html

 講演は「国語授業の…」と題された内容で,いわゆる「話すこと・聞くこと」と「読解」がその中心となった。
 手法としてことさらに目新しい指導法があったわけではないが,「焦点化」「視覚化」「共有化」という三つの視点で,いかに全員を「参加」「理解」に導くかが,模擬授業的な手法も取り入れられてわかりやすく説明され,参考になった。

 ユニバーサルデザインという考え方が,製品や政策の中で語られた延長上に,「授業」と結び付けられたのだろう。もちろんその考え方について異論はないし,当然求められるべきものだ。
 そもそも「全員参加」「全員達成」というキーワードこそ,かつて自分たちが始めたサークル活動の原点でもあったはずだし…。

 しかし,ここで勘違いしてならないのは,「誰にもやさしい,わかりやすい」ことが,授業の基本的な要件ではないということだ。

 バリアフリーが隅々まで行き届いていることは,目的を早く楽に達せられるわけだが,それによって何が養われるか,何が育つか,また逆に何か損なわれるものがないか,といったことに目を向けなければならない。
 つい先日のテレビで,わざと段差を作った養老施設が好評だと紹介されていた。それはある意味で象徴的なことのように思う。

 子ども対象の授業であればなおさらのことで,子どもからどう力を引き出し,学力として意識させ定着させるかが,基盤にあることを忘れてはいけない。

 このユニバーサルデザイン研究会の組織としては,それを「工夫」という用語で括り,多くの実践例や構造化を図っているのだと思う。その成果に期待したいし,今後も注視していきたい。

 「ユニバーサルデザイン」は様々な場で,様々なレベルで語ることのできる言葉だ。
 最終的に目指すべきが広い世界にあることは,きっと多くの人の共通の願いであろう。

 それを前提にすると,目の前にある学校教育の「授業」はどういう位置づけになるのか。

 学級や学校づくり,そしてその上の段階でのデザインのあり方こそ問われるのではないか…そんなふうに考えていくと,自分が揺さぶられる。