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談志噺その了

2011年02月05日 | 雑記帳
 立川談志と言えば、私の世代では「笑点」となる。
 そしてその後の政界進出まではずいぶんとマスコミに取り上げられたので、ある程度知っているつもりだ。
 政界を辞めてからの落語界の騒動は、のちになってから知ったもので、それほど興味はない。ただその流れがなければ今の立川流の噺家たちの成功はなかったような気がするし、談志の功績?はやはり大きい。
 本当は落語名人として不動の位置にあることだけが肝心なのだろうが、残念ながらまだ噺を聞く機会に恵まれていない。

 しかしあの口調や表情など、幼い頃から幾度となく画面で接していて、ある意味では強い談志像が、自分の中に在る気がする。
 その談志像に近い人間が、自分の周りにもいた。
 二人がはっきり思い浮かぶ。

 一人は叔父である。
 十歳ぐらいしか違わないので、幼い頃からよく面倒をみてもらった。学生時分にも田舎には珍しいべらんめえ口調だったことが印象に残る。都会に出て会社を興し、ばりばりと働いていた。大学受験の時で上京したときも様々な話を聴かせてくれた。
 そのひとつひとつを思い出すことはできないが、18歳の自分がいかに臆病者であるかを感じたことは覚えている。

 もう一人は、教員になった頃からの知り合いで、役場務めの方である。
 子どもを対象とした様々な事業で一緒になり、仕事以外の部分でもずいぶんとお世話になった。直情的なところがありいろいろな悶着を起こす方だが、何故か私は可愛がってもらった。
 ある時は怒り、ある時は諭し、ある時は美声で歌い…いくつもの楽しい思い出がある。

 談志の持っているイメージに近い部分は、やはり口調なんだろうが、改めて考えてみると、自分の目線が明確である、自分の気持ちに正直であるといったことが下地にある。
 だから私にとって、この二人はある意味で尊敬に値する、羨ましい存在である。
 いや、だった。

 無念なことだが、二人とも数年前に五十代半ばで急逝した。

 無礼な言い方と承知のうえで、私にとってそれは偶然とも思えず、ある意味の宿命のように感じている部分があることを認めよう。

 業を肯定して生きていくことは命の力を弱めるのではないか…。

 生き永らえているといったら失礼だろうが、談志七十六歳の落語を生で聴いてみてえなあ、と思う。
 どこかに二人の姿を見いだせるかもしれないなどと想像してみる。

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