すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

選ぶという余裕のページ

2009年01月19日 | 雑記帳
 なんとかホームページ更新に手をかけたら、少し調子にのって「写真」まで広げてしまった。
 いずれ、撮りためた写真は新ページを作ってと思っていたのだが、考えてみるとやはりブログの方がアップしやすいことに気づいた。
 ココログのページがあるのでそれを使ってと思い、いろいろ試しながら数時間かかって今までのものからお気に入りを数枚アップした。
 それにホームページのトップからリンクできるように、ということである。

 身近な風景や植物だけだが、なんだか綺麗に見えるので自己満足できる。
 クリックしてサイズもそれなりの大きさで見えるシステムもなかなかいいものだ。

 数多く撮ってはいても、それらも何かしらの形を与えないとゴミ同然だろうし、その意味で篩いをかけられる場を作ったことはよかったかもしれない。
 新しいカメラも早く使いこなしていい瞬間を撮りたいという意欲が出てきた。
 あちこちに手を出しているので頻繁にはできないだろうが、一週間に一度は選ぶという余裕を持ちたいものだ。

 すぷりんぐ+フォトと名づけてみた。
 よかったら覗いてみてください、
 

ようやくようやく、まだまだ

2009年01月18日 | 雑記帳
 ほんとは年末のうちにやっておくはずだったホームページ整理にようやく手をつけることができた。

 ファイルしておきたい大きなこととして、校外報(学校報へ書いた雑文)と校内報(職員向け)があるのだが、ようやく現在の地点に追いついた。

 一昨年度、昨年度の分はブログにも転記していたが、08年度からはこちらには載せていないので、もし興味と時間がある方はこちらからどうぞ。

 雑感
 
 縷述

 実は、まだ旧ホームページにあった資料で、残しておきたいが紙面化できないもの(例えば野口先生をお招きした時の会の様子など)も再アップしたいのだが、遅々とした作業で手をつけられないでいる。

 まあ春までは、と今年はのんびり楽しみながらやっていくことにしますか。
 それもいい。

「簡単」に飼いならされた自分?

2009年01月16日 | 雑記帳
 最近、新しいデジカメを買い求めた。
 数えてみたら7台目のようだ。以前から一眼レフにしようかと迷っていたのだが、今回も結局コンパクトを購入した。一眼はアナログ時代に買ったことはありそれなりに楽しかったが、デジタルとなると本当のところどれほどのメリットがあるか、今一つ踏み切れない。

 それはともかく、手に入れたのがあまり人は買わないだろう?多機能型カメラのせいか、今一つ使いこなしが難しい。
 最近、これほどマニュアルブックに目を通さなければならないのは珍しく、少しいらついている。

 家電やパソコンなどのマニュアルの厚さやわかりにくさが指摘されて久しいが、いくらか改善されてきているとはいえ、ペーパーを参照してやるのは時代遅れじゃないかなどと感じている。

 しかし一歩引いてそんな自分を眺めてみると、わかりにくいこと面倒なことを避けて、いつも快適にいなければならないという気持ちに支配されているからではないか…と思えてくる。
 何か新しいこと、いつもと違うことが出てきたら、それに対応するためにはクリアすべきことがあるのは当然ではないか。その段階があるからこそ「学習」というのではないか。こんなことさえ面倒になるのはズボラな性格ゆえか、はたまた老化か。

 簡単、便利、安全…確かにいいことではあるが、それらに飼いならされたような自分もまた惨めである。

大きく振りかぶるというスタイル

2009年01月15日 | 読書
 ごくごく普通の野球ファンの一人である。
 活字中毒の傾向もあるので、結構読み物などで野球世界を楽しむこともある。
 正月に久しぶりに買った『アエラ』に松坂大輔のことなどが載っていて、その記事の一つに興味を惹かれた。
 編集部の伊東武彦という人が書いた文章である。
 
 ワインドアップというロマン

 書かれてからああそうだなと気づくのは、いかに自分が低級な野球ファンであるかを暴露したにすぎないが、最近の投手は走者がいなくてもセットポジション、ノーワインドアップが増えてきているらしい。そう言われれば結構目立ってきたなあと今さらながら思う。
 その理由は、体の軸のぶれを防いでコントロールをよくすることがあり、さらに人工芝球場におけるマウンドの問題もあるということだ。

 そういう現実があるなか、松坂は「ピッチャーは振りかぶって投げるもの」と自分の中でそう決めたらしい。
 この「振りかぶる」という動作は、反動を使いスピードを上げるということなのだが、そこに気迫のようなものが乗せられているようで、見ていて眩しく感ずるときがある。
 それが個性的であればあるほど印象的な姿で残る。例えば村田兆治しかり野茂茂雄しかり…。

 大きく振りかぶる。ただの野球のロマンだろうか。

 むろん、仕事に通ずる面もないとは言えないだろう。
 しかし現実がままならないからこそ、ロマンを感じさせてくれる姿を見ていたい多くの観衆がいる。
 合理的なことが全てではない。なんといってもワインドアップは胸をはることが前提だから。
 「野球」と名づけられたスポーツにはふさわしいスタイルだと思う。

近距離通信法である言語

2009年01月14日 | 読書
 岩波書店の雑誌『図書』1月号に、中井久夫という精神医学を専門とする方が寄せている文章が面白かった。

 人はITによって近距離通信法である言語を遠距離通信、超遠距離通信に組織的かつ大規模に改変しつつある

 言語の起源をたどっていくとき、それが身の周りにいる人に発せられたことは間違いなく、それが徐々に拡大していったのだが、ここに来ての飛躍はもはや革命的と呼んでいいのかもしれない。
 ただ、人間の一番の得意である言語の本質は、やはり近距離通信なのだと信じたい。時代に対応していくための方法は模索しなければならないが、近距離通信として意識するならば、子どもたちに育てていくべきことはかなり絞られてくる。

 それはまず「声」であり、表情や仕草を大切にするということだろう。
 ともあれ、近距離にいる人に伝わらなければ、何も始まらない。

読みなおし、読みきるその二つめ

2009年01月12日 | 読書
 2001年にこの本を読んだとき「なるほど!」と大きな指針を得たように思った(という記憶がある)。

『インターネット的』(糸井重里著 PHP新書)

 しかし、今再び読みなおすと、いかに自分がわかっていなかったか、つまり表面的なことのなぞりでしかなかったかを思いしらされる。

 あれから8年。
 パソコンやインターネットに関する性能や普及の進歩、拡大は目を見張るものがある。ただ、糸井がこの本で語った「インターネット的」という概念には大きな違いはないと思う。

 リンク  フラット  シェア  
(+グローバルということもある)

 「インターネット的」という考え方は、パソコンなどの情報機器の発達によって命名されてはいるが、実は必ずしもそれを前提としていないという発想に糸井の柔軟さがある。
 その本質を理解すれば、いかに自分が機器や流行にとらわれ「インターネット的気分」になっていたか反省させられる。
 つまり、自分の働きかけによって誰かとつながり喜びなどを分かち合い世界が広がりはじめたか、という観点ではほとんど変化はなく、いやむしろ停滞しているのではないか、ということである。

 ふと、昨日の朝テレビ番組で取り上げられた風景を思い出す。
 昭和の色を濃く残す地方都市の路地で、自分の作った野菜を売っている若者?のことだ。むろん売り上げは少ないだろうが、一定の客がいたり、会話を楽しみながら新しい野菜を勧めたり…こんなあり方、生き方もインターネット的と呼べるような気がした。

 懐古趣味ということではない。個の価値や実感を大切にした場を作り上げていく可能性を広げているということである。それはインターネットによって果てしなく大きくなったが、発端となる個人の姿勢としては昔と差はない。
 むしろ本質を理解して行動しなければ、道が大きく広がった分より困難な時期といえるのかもしれない。

 インターネットの普及がインターネット的であることを妨げる、という逆説的な言い回しは言い訳にしか過ぎないが、注意力散漫傾向の自分には警句として留めなければならない。

読みなおし、読みきるその始め

2009年01月11日 | 読書
 今年も例年通り100冊は目標として掲げたいと思っているが、それに加えて今まで読んだ本を読み直したいと書棚を整理しながら、いくつかピックアップした。
最初は軽い?ものからと思って、読んでみたのがこの二冊。

 『いつまでもデブと思うなよ』(岡田斗司夫著 新潮新書) 
 『五十歳からの成熟した生き方』(天外伺朗著 海竜社) 

 この二冊はある意味では正反対といってもいいことがある。目標達成型とそれを否定する生き方と言ってもいいだろうか。
 しかし双方そのための手立てが明確である。前者は「レコーディング」であり、後者は「瞑想」である。これはよくよく考えると、結局自分をどう見つめるかという意味でつながっているようにも思えた。
 もちろん何に価値をおくかということについては極端に異なるのだが、自分をどうその世界に近づけるかということにおいて具体的な方法を持っている、それを詰めていくことについて共通するものを感じた。

 目標達成も、世俗的なことにとらわれず心の平安を求めることも、やはりそれは信念を具体化する術があるという点において違わないのは、ある真理を教えてくれるように思った。

未必の故意?から道は出来上がる

2009年01月09日 | 雑記帳
 刑事モノのドラマでよく使われる「未必の故意」という言葉が頭に浮かんだ。
 突飛な連想であり、もちろん犯罪でも、悪意を持っているわけでもないだろう。
 それにしても、ちょっとばかり差別的な言葉遣い?と感じたから、そんな連想が浮かんだのか。

 先日参加した研修会で、隣県の小学校で行われた研究会報告があった。その学校では算数科において習熟度別の少人数学習指導が行われている。小学校のうちから既習の習熟度の高低によってコース分けすることについてはちょっと抵抗を感じるが、詳細が分からないのでそれはさておく。

 問題は、コースの名前である。
 習熟度別に「はやて」「やまびこ」「つばさ」とある。
 東北へ向かう新幹線車両の名称を使っている。同じ東北新幹線を通るはやてとやまびこの違いなら、それはわかる気がする。停車駅の数も違うことだし、所要時間つまりスピードにだって差がある。

 では、つばさはどうなる。あわれ、山形新幹線。
 確かに東北新幹線福島から枝分かれしているし、けして便がいいとは言えないわけだから、レベルが低いというのか。そもそも、つばさという名称が奥羽本線の特急であったことを知っている人はいるのか!(これは脱線か)。
 はやてにしたって後から出来た新幹線に過ぎないのに、ちょっと格差がありすぎませんか…。

 まて、我が秋田新幹線「こまち」はどうなった。
 コース名にも登場しないくらいに差別されているのか。
 ご承知だろうが、こまちははやてと連結して走っていて、盛岡で分かれるのですよ。
 となると、習熟度の高い「はやてコース」の中に「こまちコース」は隠れているのかもしれない。

 自分たちで進んでいく「はやて」のなかから、「ぼくはそっちには行かないよ」と真っ直ぐ北へ走る道を選ばず、西へ進路をとって奥羽山脈を突っ切り日本海を目指す…春は角館の桜、夏は大曲の花火、秋田の竿灯、そして実りの豊富な秋、白銀の冬と実に人間らしい道を選ぶのが「こまち」コースの人間だ!算数からファンタジーワールドを目指す魅力的な展開である。
 実に素晴らしいコース設定、見事なネーミング…
 とどこまでも脱線は続き、いつの間にか未必の故意はどこかに消えうせてしまいました。

 でも、実際に「はやて」コースの先生が「こまち」の道も作る授業をしてくれたら、そんな発想を持っていてくれたら、本当にうれしいな。

話材としての牛

2009年01月08日 | 雑記帳
 今年度は毎月初めの全校集会の話を、職員が輪番ですることにしていて、子どもたちには本当に好評だと思う。
 先生方がそれぞれに工夫をしてくれるので、惹きつけられながら聴いている様子が伝わってくる。
 お願いしてよかったなあと思うことの一つである。

 それはある面で、私個人の話が減るというメリット?もあるわけだが、逆に行事などの一回一回の挨拶などはより大切にしていかなければならないと戒めている。
 ただ「話は短く」が自分自身の大きな前提でもあるので、その辺りとの兼ね合いが難しいところである。
 子どもが活躍する場面も作りたいし…といろいろな思いが渦巻いているのである。

 さて、来週の始業式の話である。
 今年はあまり漢字にまつわる話をあまりしていないので、今回干支にちなんだ「牛」をちょっとだけ取り上げるかなと思い、調べてみた。

 牛という字が正面の顔をもとにした象形文字であることは有名だが、では「羊」との違いは?
 牛を真っ二つに分けることからある漢字が生まれた。それは何か?
…なんていうのもなかなか面白いね。

 「牛飲」なんていう熟語がある。「牛歩」というのも結構有名だし、それで牛をイメージさせていくこともできるだろう。でもあまり数はないから発展しないかな。

 そこで…。
 今回は「牛扁」の漢字を使おうと思う。すぐいくつか思いつくが、調べてみると小学校段階ではあまりないようだ。牛が2年生に初出で、3年生、4年生、5年生にちょうど一つずつ登場する。さて、何でしょうか?
 これを学年ごとに訊いてみるような形はどうだろうか。

 そして、5年生で登場するのが「特」。
 これは結構使えそうだな、と感じる。「牛」と「寺」という組み合わせも意外性がある。小学生にはちょっと難しいかもしれないが、熟語としてはよく使われるし、印象付けられる字ではないかと思う。

 メッセージは、今年があなたにとっての特別な年であるように…
 と、そこまでCMっぽくはやらないが、短い話にもそういう願いは込めたいものだ。

「力強い」という形容

2009年01月06日 | 雑記帳
 先日、年頭の挨拶ということでテレビ画面に映った某氏の言葉遣いが妙に気になった。
 今年の施策の重点の一つとして学校教育を挙げ、その流れの中でこんな言葉を言い放った。

 力強い教育

 んんっ?と思った。
 話題はもうそこを過ぎて、別の事項に過ぎていったが、どうにもその言葉だけがこびりついてしまった。
 「力強い」というのは、いったいどういうイメージなんだろう。
 まさか軍国主義的なことを指しているわけではないだろう。話の前段が「学校統合を進め…」といった文言があったようなので、これは物的・人的な教育環境整備という意味合いなのだろうか。

 それにしても「力強い」は、いかにも力強い。
 「ひ弱な教育」とは誰も言わないにしろ、「優しい教育」「思いやりのある教育」「痛みの分かる教育」…とはカテゴリが違うのだろうが、印象的にはずいぶんと遠い言葉のような気がする。
 説明を求めれば意図している内容は明らかに違うとは思う。しかしそこからイメージできる教育というものは、やはり何か今のこの国の現況を示しているようで少し考えてしまう。

 今朝の新聞の文化欄に載った暉峻淑子氏の随想「答えてもらえない悲しみ」という文章に書かれてあることは、失業者に対する日本人の目線を指していたが、正直自分にもギクリとする思いがあったりして、それに対する答が「力強い教育」から生まれるとは到底思えない。