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対話についての気がかり

2013年01月09日 | 雑記帳
 昨日参加した研修会で,「対話」を取り上げた実践発表があった。

 『「対話」を生かした言語活動の充実』ということで,まあ大雑把にいってしまえば,学習過程の中にペアやグループ形態を取り入れた話し合いを持つという形である。

 対象学年が低学年,記録は1年生の学級であり,それが興味をひく。
 手順として(ペアにおいて),「相手の考えを受け止め復唱」→「復唱+質問・感想」があった。
 そして具体的な場面として物語文の読み取りで,想像したことを「対話」する様子がビデオをつかって映し出された。

 二人が向き合い,一方が自分の書いた文を読み上げる。そうするともう一方の子が,こんなふうに言う。

 「○○さんは,~~~~~~と思ったんですね。ぼくがキャッチしたことばは,~~~~~~ということでした。ぼくは,そこを読んで・・・・・・・と思いました。」

 2組の子が映し出されたが,一年生としては非常にスムーズなやりとりで,このパターンの積み重ねが見えるようだった。

 しかし,である。
 どうにも違和感が湧いてくる。

 復唱させるという意図はわかる。そのことによって「聞く力」が鍛えられることも確かだろう。
 けれど,少なくともビデオを見る限りでは,子どもは相手の言うことを間違えずに覚えることに集中していて,それに精一杯なのである。「キャッチ(自分の心に残ったという意)」した文章の一部分も,反応の速さを考えると恣意的のような気もする。

 同様のことを指摘なさった先輩の先生がおられた。
 形式の重要性は否定しないがそれにとらわれずに子どもを見とって柔軟に指導していく,といういわば王道的な助言であったと思う。
 もちろん,現場の態勢としてそうなっていないとは思わないが,陥りやすい点であることは確かだ。

 もう一点,この発表を聞きながら,考えていたのは,「低学年は表現したいものだ」ということだった。
 その特性をそった段階,その意欲を生かす方法がもっと考えられていい。

 「対話」という言葉が流行のように使われはじめ,ビックワードになっていけばいくほど,画一的になっていく危険性には目を向けていきたい。

 もう一つ,とても気になった発言があったが,自分の中で温めて後日に。

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