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体験を「重く」するのは何なのか

2007年05月28日 | 読書
 金森俊朗氏の本を読むのは初めてだった。
 もちろんその名前は知っていたし、「いのちの授業」などの実践も雑誌等で断片的には目にしていた。
 実は、以前NHKで特集したときに録画しておいたDVDがあるのだが、なぜかまだ視聴していない。
 
 今回読んだ『いのちの教科書』(角川文庫)の冒頭に、金森氏がその特集番組の感想を榎本君という子(主人公的役割の子だったという)に聞いたことが記されている。
 榎本君の言葉が凄い。

 「軽い。俺たちの一年は、あんな軽いものではなかった。もっと重たかった」

 マスコミとしてのテレビ番組の限界を見事に指摘した言葉だ。金森氏のあとがきの後に、NHKの担当プロデューサーの解説が記されているが、その文章と重なり合うことがわかる。「映像にはなかなかできない部分」「映像だけでは伝わりにくい部分」が「金森学級を根本から支える」ということである。

 この本にはおそらくその全体像が示されているのであろう。
 学級のスピーチ、手紙ノート等々日常的な姿やら、妊婦、ガン患者を招いた授業、漢字の起源、チョウの一生、そしてニワトリの命を絶って食べることまで、バラエティに富んだ実践が盛り込まれている。
 ともすれば「体験」の強烈さが目立ってしまうが、その重みを感じながらもなぜ体験なのか、氏の意図がよく見えると思う。その点を明確にし、学習のつながりに結び付けていかない限り、榎本君のような発言をする子は育たないと言い切れる。

 金森氏の次の言葉は平凡だけれど、いつもかみ締めておくべきだと感じた。

 体験が貴重であることは事実です。しかし、体験こそ、きちんと意味をとらえ直し続けなければ、かえって頑迷になったり偏狭になったりするのではないか

 「体験と読書を結びつける」という1項もあり、その学級文庫の規模にも圧倒される。いわゆる「総合」が意図した本質は、実はそういうことだったはずなのである。

 子どもに「軽い」と評価された録画した番組を見て、何が汲み取れるか楽しみでもある。


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