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声の未熟さを今も嘆く

2021年05月27日 | 雑記帳
 武田砂鉄の『ワダアキ考』というネット連載を楽しみにしている。今回のタイトルは「國村隼が今日も静か」。この内容が実に興味深く、読みこんでしまった。喫茶店などで客の声の大きさが抑えられている現状から入り、ドラマでの國村の台詞の声量の小ささと、その印象深さについて語っている。すぐ思い浮かぶ声だ。

 武田が感じている、次の箇所は本当に納得できる。

「『てめえ、この野郎』というセリフがあったとして、泉谷しげるが大声で言った後に広がる光景は擦り傷や打撲って感じがするが、國村隼が小声で言った後に広がる光景って、瀕死か死である。しかも、自分で殴るのではなく、自分の手は汚さずに誰かにやらせる、そんな気がする。」


 子どもの頃から、周りにいる大人や学校の先生などに「声の大きい人」は居た。明朗さや快活さを表すとも言えるが、そればかりではない。一概に決めつけられないにしろ、武田の記す「声の大きい人は信じてはいけない」という感覚は少しずつ自分にも溜まっている気がする。声量の大きさは圧迫や強引さにも通ずる。



 武田は、静かな声の持ち主として國村の他に姜尚中も登場させ、ささやくような声を聞き取るときにスポットをあて、こんな見解を示す。「人は、その人にさらなる声量を求めるのではなく、周囲の音を減らすことで対応しようとする。」…確かにと思う。注意力を働かせるためには、声の小ささは有効に働く場合がある。


 自身の地声に関して客観的判断はできないが、けして小さくはない。だから教職にあった時、声の発し方に気を配ったと思う。それはいい精神修業でもあった。機会は減ったが、今もって「人間の本質は声に最も表れる」という三好十郎の言葉を思い出すのは、事あるたびに「本質」の未熟さを嘆く場面があるからだ。


 どうでもいいことだが、國村隼とは同齢である。國村は数十年前から同じ印象でずっと年上と思っていた。外見はもちろん、声の個性という点でもイメージは成熟?している。


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