いずれも再読。三人とも気になる作家、文筆家である。再読こそが読書と主張する書籍が出たことを、新聞の読書案内で見かけた。それは実感としてある。気になる箇所は何度読んでも気になる。ずっと考えるために、また記しておく。
『私の方丈記』(三木 卓 河出書房新社)
こどものころ、そして若者であるころ、自分が風景に融けこんでいるから、風景を対象として見ることはない。風景がその輝かし姿を現わすとき、人は何らかの意味で風景から剥がれ落ちている。だから風景が見えるのである。
『「あまのじゃく」に考える』(平川克美 三笠書房)
アンダーラインを引く行為というのは、自分のなかにはすでにあるのだけれど、まだ完全にそれが自分のものになっていない事柄が、書かれているところ、ということになりますね。
『この先をどう生きるか』(藤原智美 文藝春秋)
目的は達成したとたんに目的でなくなります。それはたちまち結果となります。人間にとっての、あるいは生にとっての結果は死です。しかし死は生の目的とはなりませんね。死ぬために一生懸命生きるというのは本末転倒で矛盾しています。つまり死は価値化できないのです。死という結果が価値ではないとすれば、人生にとって何が価値なのか。いうまでもなく人間にとって価値があるものは、生そのものです。生きるという行為、その過程こそが価値なのです。
『私の方丈記』(三木 卓 河出書房新社)
こどものころ、そして若者であるころ、自分が風景に融けこんでいるから、風景を対象として見ることはない。風景がその輝かし姿を現わすとき、人は何らかの意味で風景から剥がれ落ちている。だから風景が見えるのである。
『「あまのじゃく」に考える』(平川克美 三笠書房)
アンダーラインを引く行為というのは、自分のなかにはすでにあるのだけれど、まだ完全にそれが自分のものになっていない事柄が、書かれているところ、ということになりますね。
『この先をどう生きるか』(藤原智美 文藝春秋)
目的は達成したとたんに目的でなくなります。それはたちまち結果となります。人間にとっての、あるいは生にとっての結果は死です。しかし死は生の目的とはなりませんね。死ぬために一生懸命生きるというのは本末転倒で矛盾しています。つまり死は価値化できないのです。死という結果が価値ではないとすれば、人生にとって何が価値なのか。いうまでもなく人間にとって価値があるものは、生そのものです。生きるという行為、その過程こそが価値なのです。