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全て分けるか混ぜるか

2021年01月21日 | 読書
 『入れたり出したり』(酒井順子)のプロローグ「分けると混ぜる」を読み、いくつか連想が働く。「わかる」とはそもそも「分ける」から来ているという論を読んだことがある。ここでもある文章が引用されている。「全ての学問は、分類することから始まる」。分ける作業が「わかる」第一歩という考えは説得力がある。


 著者は、分けたがりの人の「快感」を指摘している。例えば「皮を剥く」ときの気持ちよさなどを挙げている。そこなのかとは思うが、分類するときのすっきり感は確かにあるだろう。しかしそれが単に区別だけならいいが、そこに序列ができたり、反発や対立が出てきたりすることが、人間社会にあることが問題だ。


 では、「混ぜる」がよしかと言えば、これも諸手を上げてとまではいかない。「混ぜる」は確かに「和」に通ずるし、グローバルやバリアフリー的な考え方とも相性がいい。常に白黒決着つける、明確に評価、判断することが難しくなった世界では進むべき方向かもしれない。しかし「混ぜるな、危険」という語もある。



 昔話になる。学習指導法にも研究団体によって「派」めいた状況がある。仮にトップダウン方式、ボトムアップ方式と分類してみると、これらを単純に混ぜることはかなり危険を伴う。学級担任ならば、両方のいい所をと考えるのは自然だが、それを実現させるための筋道は、かなり意図的計画的でなければならない


 「分けると混ぜる」を考えていくと、最終的には著者のいうように、どちらに「快感」を持つかで収めなければならない。といっても今の社会が「混ぜる」をベースに動いていることを前提に、自己の言動を分類することが求められる気がする。混ざっていいもの、絶対に混ざらないものの「分類」作業になるのか!