すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

午前三時に鳴く蝉よ

2011年08月10日 | 読書
 隣家のもみじの樹に止まったらしい蝉が鳴き始めた。
 まだ午前三時を回ったばかりである。

 ここ数日、夜間は窓を開け放したまま寝ているので、ずいぶんと喧しく聞こえる。
 うつらうつらと寝返りをうちながら、先週末に読んだ『風の中のマリア』(百田尚樹 講談社文庫)のことが思い浮かぶ。

 オオスズメバチの生態をテーマに小説を書く…その設定の奇抜さにはちょっと驚いたが、考えてみれば「動物記」「昆虫記」などの古典的なものを含めて、絵本なんかもずいぶんあるし、そんなに珍しいことではなかろう。

 マリアというワーカー(働き蜂)の一生(と言っても三十日)を描くこの物語は、科学的にかなり綿密に調べられ、筋が作られている。
 巣という「帝国」を守るための戦闘マシーン、いわば戦士であるマリアが、飛び、戦い、驚き、そして考える様子から、蜂も含めて昆虫の世界に引き込まれていくし、本当に蜂にも感情や意識があるのではないかと思わされるほどだ。
 生態というより蜂社会の営みから、生きる意味を問うと言ってもいいだろう。


 蝉がまた鳴き出した。

 蝉は一生の大半を地中で過ごし、地表に出て一週間でその生を終える。
 何のための羽化と言えば、生殖行動であり、子孫を残すためだけに存在するようなものだ。蝉に限らず多くの昆虫は、自分の命をかけて次の世代を残す宿命にある。

 そして蜂のように役割分担が明確に決まっており、集団で数少ない選ばれた命を守りながら、自分たちのゲノムを残そうとする者もいる。

 それらの一生を長い短いと言ったりすること、哀れと感じたり時には羨ましいと叫んでみたりすること、…そんなふうに人間があれこれ言うのはお笑い種だが、またそれが人間の人間たる所以かと考えたりする。
 個体数減に転じた種族が何を言うか…そんな声も聞こえてくる。

 かくのごとく迷えるヒトという存在を、、蝉は憐れむようにジージーと鳴いてくれるのかもしれない。

 と、全然とんちんかんな方向を想像してしまうから眠れない。

 もう明るくなってきたではないか。
 
 午前三時に鳴く蝉よ!今日は相手が見つかるといいな。