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「好かれる」は大事な言葉だから

2011年08月09日 | 読書
 宅配用の覆われている黄緑色のビニールを破り、その特集名を見たときに、ふっと違和感を覚えた。
 『国語教育』(明治図書)の2011.9号である。
 特集名は「好かれる国語教師の条件」

 中味を見ずに机上に置いたままだったが、昨日、石川晋先生のブログで触れられていたので、改めてページをめくってみることにした。
 http://suponjinokokoro.blog112.fc2.com/blog-entry-893.html

 「好かれる」ことが目的ではないと直接的に書く方、そうでない方がいるにしろ、特集執筆者のほとんどが似たように考えておられるし、ある意味では編集者の意図が伝わっているのだろう。
 つまり、編集後記に書かれているこの部分である。

 本号は「好かれる国語教師の条件」を通して改めて国語教師の力量を問う特集でもあります。

 では何故、「国語教師の力量」を前面にしないのだろう。
 「好かれる」というフレーズが、購読者層に働きかけるからだろうか。それほど単純ではないとは思いつつ、やはりそれが大事な言葉だから、という理由しか見当たらない。

 国語教師が子どもに好かれることが、子どもの国語科学力を伸ばすことに影響を与えると判断したから、この特集名となったのだろう。

 そのためにどんなことをするか、どうあればよいか、執筆者それぞれのアプローチが書かれてあるが、「担任への満足度・教師と子どもとのズレ」の章の最初に載せられた長谷川祥子先生の論文は、かなり特徴的だ。

 「一 好かれる国語教師の条件」と17行ほど書かれたあとは、全く指導技術、指導法についてページを割かれている。
 条件とは、(1)授業がわかる(2)学力が上がる、の二点であると言い切り、そのための指導を書くことこそが、有益なのだという姿勢で徹底している。

 書かれている内容自体に異論はないが、「教師と子どもとのズレ」を考えようとしたときに、いわば指導の手順がいくら詳しく書かれてあっても、それでは片手落ちではないかと思う。

 「条件」は最終的に上記の二つに集約されるにしろ、そこに到る歩みはひと通りではない。
 つまり子どもに「好き」「楽しい」「惹かれる」「夢中になる」という感情、行動を起こさせるための要素は、もっと多様に複雑にあり、そこが大切になるのではないかと考える。
 これは、どんな指導手順を選択するかとまた別の観点であるような気がする。

 「子どもとのズレ」をどんなふうに受けとめ、折り合わせていくか。具体的な授業場面で、そして学校の指導体制の中で…クリアすべき条件は結構多いのではないか。