きちんと練習しないから上達しないことはわかっているのだけれど、時折、妙に墨を磨りたくなってくる。
『書本』(武田双雲著 池田書店)は楷書の手本でもあり、自由書の作品集でもあり、小さな詩集でもある。佐藤可士和のアートディレクトもなかなかだ。
武田双雲は、自分の本名にある「大」という漢字を、書家である母親から習い繰り返し書いたという。そして、それが人の姿から出来たと聞き、人だったら十人十色と大きな人、首の長い人、はげしい人…そんなふうに「大」を書いて遊んだという。
文字は、何かを伝えるためにぎりぎりまでシンボル化されてきた。その過程において統合があり省略があり、多くは合理的な形を整えてきたのだろう。そして文字にする手段も用具の拡大、進歩によってきわめて平均化されてきた。
この大きな流れの中でどうしても薄められていく、伝えたい気持ちの生々しさや肌触りといったもの。
どんな入り方をしてもいいが、ほら面白いじゃない、こんなことがあったよ、できるよ、という心の動きを力強く他者に伝えるためには、既成のことにとらわれず、規制されていることを打ち破ってみることから始まる…伝えるための記号である文字そのもので表現できることは素晴らしいと思った。
『書本』(武田双雲著 池田書店)は楷書の手本でもあり、自由書の作品集でもあり、小さな詩集でもある。佐藤可士和のアートディレクトもなかなかだ。
武田双雲は、自分の本名にある「大」という漢字を、書家である母親から習い繰り返し書いたという。そして、それが人の姿から出来たと聞き、人だったら十人十色と大きな人、首の長い人、はげしい人…そんなふうに「大」を書いて遊んだという。
文字は、何かを伝えるためにぎりぎりまでシンボル化されてきた。その過程において統合があり省略があり、多くは合理的な形を整えてきたのだろう。そして文字にする手段も用具の拡大、進歩によってきわめて平均化されてきた。
この大きな流れの中でどうしても薄められていく、伝えたい気持ちの生々しさや肌触りといったもの。
どんな入り方をしてもいいが、ほら面白いじゃない、こんなことがあったよ、できるよ、という心の動きを力強く他者に伝えるためには、既成のことにとらわれず、規制されていることを打ち破ってみることから始まる…伝えるための記号である文字そのもので表現できることは素晴らしいと思った。