goo blog サービス終了のお知らせ 

すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

実在するものには影がある

2021年05月21日 | 絵本
 日本一有名な昔話「桃太郎」の次は、「しゅんたろう、だよ」と言って日本一有名な詩人の作品を読むことにした。谷川俊太郎の名前は教科書にも多いし、特に「スイミー」は国語科教材の代表的作品でもある。レオ・レオニ作品の訳は数多い。同じコンビの並ぶ棚から、面白いなあと思った一冊を取り出した。


『うさぎを つくろう』
 (レオ・レオニ  谷川俊太郎・訳)好学社 2007.05


 
「はさみ」と「えんぴつ」が作り出した二匹のうさぎ。なかよく遊んでお腹がすき、はさみとえんぴつに頼んで「にんじん」を描いてもらい、食べてしまう。ぐっすり眠ったあとにまたお腹がすいたが、今度は、はさみもえんぴつもいない。探しまわっていると、突然、大きな赤いにんじんが目の前に!しかも本物で…。


 非常に単純なストーリーだが、心に残る展開だ。全ページに背景がなく、登場するモノ一つ一つの存在を強調するつくりだ。二匹のうさぎは、一つは線で描かれ、もう一つは紙の切り抜きという、いわば「薄い」存在でもある。それらはお腹がすくことによって、行動を起こす。新しい出来事にもひるまないで向かう。


 ていねいに言動を読み進める必要がある。谷川は、扉の文章に、原作の副題が「ひとつの寓話」と記されている点について紹介している。何を教訓とするか、谷川は「本当に実在しているものには、影があるのだ(略)影は人生を立体的に豊かにする」と書いている。「影」を感じさせる声を発する…難しいが意識したい。

「桃太郎」と…読み語りました

2021年05月19日 | 絵本
 桃太郎とはつくづくいい素材だ。昨年、小学生による桃太郎研究本が発刊されたことにも驚いたが、「学会」まで組織されているとは…。最近ケンミンショーでも岡山県民が取り上げられていて、そこにも桃太郎愛(笑)を感じた。自分もささやかながらその末席に加わろう。ガタロー☆マンの読み聞かせも盛り上がった。


『空からのぞいた桃太郎』(影山 徹)岩崎書店 2017.09

 この題名、そして内容を見て、ひどく感心したことを覚えている。様々なバージョンで発刊されているこの昔話を、俯瞰という視点で描くとは、非常に興味深い。もっとも文章に関して言えば、まったくオーソドックスな展開、描写である。しかし「絵」が語ることの大きさを感じさせてくれることは、間違いない。

 出版する側の意図は、小さい解説書に記されていることで想像できる。典型は本の帯にある「鬼だから殺してもいい?あなたはどう思いますか?」だ。それは、鬼が島の様子を描いた3枚の画によって象徴される。前置なしにその絵をみたら、どんな反応があるものだろうか?これはぜひ親子で一緒に読みたい一冊だ。


『ももたろう』(ガタロー☆マン)誠文堂新光社 2020.12


 これはもはや「桃太郎」の筋を追うというより、言葉や画のパフォーマンスを楽しむ体裁である。どんなテンションで語り聞かせるか、そこに尽きると言っていいかもしれない。しかし語尾の「ました」を強調することは、語感について意識させることも含まれるといってよい。まあ、その場では考えないだろうけど。

 ひとつ面白いアレンジがある。筋の中で「犬・猿・雉」の登場順は鉄板ともいうべき点だが、それが「猿・雉・犬」という順で出される。しかも今まで性別は考えたことがなかったが、犬がメスという体裁で描かれている。これも意味は特になく、作家の楽しませ方としての手法かもしれない。まあ意外な一冊である

「桃太郎」と言ったって②

2021年05月18日 | 絵本
 日本一有名な童話といってもいい「桃太郎」には、様々なバージョンが存在する。図書館に在るものは、まあスタンダードなもので、次の2冊は典型的だろう。文章や描かれる絵には、それぞれ作家たちの個性があふれる。脚色は自分の中の物語の表現でもあるだろうし、それを味わうことが同一テーマの楽しみだ。


『ももたろう』(代田昇・文 蓑田源二郎・絵)講談社 1978.09


 これはずいぶんと脚色されている。もちろん特定の地方で語られていた場合もあるだろう。桃太郎が最初はなまけ者だったこと、一人で舟に乗り込み、鬼が島を目指す途中で、犬が島、猿が島…で家来と会うこと、大きな船にたくさんの娘や宝を積んで凱旋すること、などだ。墨を使った絵の雰囲気がなかなか見事だ。

 読み進めていると、なんとなく講談調の語りが合うように思えてくる。特に戦いの場面の調子のよさがマッチするように思える。「『そうれ、やっつけろ。』と、ほいさかどどどと もんのなかに とびこんで、あか、あお、くろのおにどもを~~」と畳み掛ける。擬音語だけでなく、全体をリズムよく語る手もありそうだ。


『ももたろう』(山下明生・文  加藤休ミ・絵)あかね書房 2009.10


 この絵本の特徴は、まず一つには筋がこまかく書き込まれている点が挙げられる。家来にする過程で、それぞれにきびだんごを「ひとつじゃたりない、ふたつあげよう」とする箇所もユニークだ。特に鬼が島上陸から退治するまでの描写が詳しく、読み応えいっぱいである。一流童話作家の文章がさすがに冴えている。

 また、絵も魅力的だ。クレヨン・クレパス画らしいが、暖かみがあるし、面白みの伝わってくるタッチである。あとがきに山下明生が文章を寄せていて「プリミティブな力強い絵」という形容がぴったりだ。一人で読んだり、少人数の読み聞かせたりするなら、この一冊を選ぶだろうと思う。「桃太郎」の魅力が高い。

「桃太郎」と言ったって①

2021年05月17日 | 絵本
 今年度のスタートに「桃太郎」を読むことにした。「おかしばなし」(昔話のもじり?)のシリーズが異色で楽しそうだったから、対象の中学年にはウケるだろう。ただ、それだけでなく、ミニブックトーク風に、他の絵本も紹介してみることにした。改めてバリエーションの多さに驚いてしまう。2冊ずつ見ていく。


『桃太郎』(絵・斎藤五百枝  新・講談社の絵本)2001.05


 元祖というべきか、正統派というべきか、表紙絵の姿を見ただけで「昔ながらの…」と表したくなる。筋はよく知っているその通りであり、家来となる犬・猿・雉の格好が武具を付けていることで、描かれた時代を想像できる。勧善懲悪の形をとって、明治期以降の国定教科書の挿絵のイメージを作ったとされている。

 今改めて読むと、登場人物の台詞がはっきり書かれていてストーリー性が高い。さらに擬音語が懐かしい。昔幼い頃に耳に馴染んだ音に近いからだろう。桃が流れてくるときの「どんぶりこっこ すっこっこ」、宝物を車に積んで皆で押すときの「えんやらや、えんやらや」というかけ声。こうしたリズムの良さは不変だ。



『ももたろう』(岩崎京子・文 宇野文雄・絵)フレーベル館 1984.04


 「むかし むかし あるところに じいさまと ばあさまが すんでいましたと」と定番フレーズで始まる。「にほんむかしばなし」シリーズは他の本もそうだろうか。漫画チックな絵で進行する。トビが鬼の悪行を知らせる、長者の娘がさらわれているなど、おそらくこれはどこかの地方に伝わる筋を生かしている。

 桃の流れる様子は「つんぶく かんぶく」、トビの語る「ひんがら ひんがら」などは特徴的だ。場面として詳しく描かれるのは、鬼が島へ上陸し最初の門を突破していくところだ。動きがある。他には、いくつかの場面で地の文がなくて、台詞だけで進行するので、読む場合は声調などに変化が欲しい。それも面白い。

まずは缶を蹴る

2021年05月14日 | 絵本
 絵本カテゴリーがなかなか捗らない。学校での読み聞かせが年度替わりで二か月なかったこともある。割り当てが決まり、いよいよ来週から始動する。少し意識して絵本を手に取り、印象に残ったものを取り上げてみよう。ある程度パターンを決め、粗筋→特徴、よさ→ポイントと綴ってみよう。まずはこの一冊から。


『かんけり』(石川えりこ) アリス館2018.09



 学校からの帰り、なかよしのりえちゃんにかんけりに誘われた「わたし」。みんながオニに見つかり、たった一人物置小屋から、じっと様子をうかがっている。いつも助けてくれるりえちゃんが、小さく手をふってわたしの助けを求めている。わたしは、じぶんに「よし!」と声をかけ戸をあけ、かんを目指して走って…。


 「かんけり」…懐かしい響きだ。昭和30年代後半から40年代初め、休日や放課後に小学生が近所で遊ぶ定番の一つだ。この作家の作品は初めてだが、1955年生というからほぼ同齢。だからこそ「かんけり」という素材なのだと納得する。鉛筆と水彩を使った画が、その時代の遊びの姿にぴったりマッチしている。


 かくれんぼ+鬼ごっこの要素を持つが、この「缶を蹴る」という動きが「わたし」の勇気を出す心情とうまく絡んでいる。誰しも経験のあるいつもの自分からワンステップ踏み出したい気持ちを、終盤の数ページで缶を蹴るまでの動きとしてダイナミックに描く。遊びの紹介も含めて、中学年以上に向いているだろう。

驚くべき名著とM先生は書いた

2021年04月14日 | 絵本
 図書館ブログで続けている町広報の紹介(創刊から順に古い号のトピックスを取り上げている)のために、昭和53年頃の紙面を見ていたら、ある先輩教員が子育てに関する連載コーナーを書いていた。そこで、一つの本が薦められていた。文学や言語に関する造詣の深いM先生が、こんなふうに絶賛しているのだ。

「わずか44ページ。320円の薄い絵本で、読み終えるのに五分とかからないはずです。それでいて440ページ、3200円あたいもの本を読んだ気分にさせられるばかりか、50分も考えさせられてしまうという驚くべき名著です。」


『ものぐさトミー』(ベーン・デュボア文・絵 松岡享子 訳 岩波書店)


 俄然、興味が湧いた。検索してみると本館には2冊あり、古い方は閉架にあるが、第13刷は児童用の棚に収められていた。さっそく借りて読んでみた。



 「トミー・ナマケンボは、電気じかけの家に、すんでいます。」と始まる物語は、すべてがオートメーション化された家で過ごす、一人の子どもの様子が描かれる。初版が1966年であり、機械化文明への多分な皮肉が込められているのだろう。ある日、カミナリによって電柱が倒れ、電気が不通になり…という設定だ。


 M先生の意図は「家庭内の労働」「生産」に絡め、機械化が進むなかでの子育てに対する危惧だったに違いない。それから40年以上経った今でも十分に通用する警句でもある。当時に比べれば格段に機械化が進み、私たちが身体を使う機会は、かなり意識しないと益々減っていく。その心配は多くの人が口にするのだが…。


 もう一つ大きく見ると「身をまかせる」危険性も浮かび上がる。人間は願望や要求によって、様々なモノ・コトをこしらえてきたが、いつの間にかそれらに身をまかせ、あまり思考しなくなっているではないか。それは機械化だけでなく社会や制度、組織等にもあてはまる。このままでは…最終ページの結論を見よ!


悪いことの「善」を満たす

2021年04月06日 | 絵本
『わるいことがしたい!』(沢木耕太郎・作 ミスミヨシコ・絵  講談社)



 本屋で見つけたわけではなく、教育系のブログで、担任している子どもたちへ読み聞かせをしたことが書かれていて、作者が沢木耕太郎ということで興味を持った。

 「いたずら好きの男の子が登場!」と表紙カバー裏にあるように、「わるいことがしたい!」といって、散らかしたり暴れたりする展開から片づけがはじまり…という内容。
 読み聞かせをするなら、保育園から低学年あたりなのかなあと漠然と考える。


 それにしても、この「わるいことがしたい」という欲望はやはり生まれついてのものだろうか。
 平日、自宅で預かっている愛孫一歳九か月の男児も、「盛り」である。
 とにかく、いろいろな物に触りたがる、なめたがる、投げたがる、入れたがる、開けたがる、叩きたがる…といくら温厚な(笑)祖父母であっても、声を荒げないと歯止めが利かない場合もある。

 もちろんそれが「わるいこと」なのかは、まったく判断できないことである。
 ただ言えるのは、大人にとっては「都合のわるいこと」という状況が生まれるだけである。


 最近読んだ雑誌の対談で、「善」と「悪」のことが取り沙汰されていて、善とはいくつかの種類があり、道徳的によいことだけではないという話が出ていた。
 愛孫のしている行為は、彼にとっては善なんだろうな(子どもは悪戯をするときに、最も脳が活性化するという説があった)…少なくとも悪ではない、と大らかな心を思い出す。


 その意味では、絵本の中で、どこまでも「わるいことがしたい」心を抑えられない男の子は、善で満ちている。
 そう、それはただ「快楽的善」であり、それだけで人は生きていけないと徐々に知り、「有用的善」に目覚め、その過程で「道徳的善」を獲得していくのだろう。

 その段階での「善」を存分に満たしてやろう。

「まってる」も「まつ」も

2021年04月02日 | 絵本
 この絵本を知ったのはコロナ騒動が始まった頃。よく視聴している「小山薫堂 東京会議」という番組で、珍しく小山が朗読した。感染症拡大防止によって様々な制限がかけられた世相を意識してのことだろう。外国の絵本で小山自身が訳しているという情報は示されていたが、実際にはどんなものだろうと注文した。



 その時のことは「まってる。絵本が届く」と題づけて、記してあった。今、改めてこの絵本を開く。「まつ」ではなく「まってる」と訳したのは、ことばのリズム、響きを重視した選択に違いない。行為としては「待つ」ととらえていいはずだ。それにしても、この「待つ」という動詞の意味深さは今さらながら考えさせられる。


 手元の電子辞書によれば「人・物・時などが来ることや物事が実現することを望みながら、それまでの時を過ごす」が最初で、他に「期限をのばす」「成りゆきを見守る」などと記されている。自らの働きかけの有無はあまり重視されていない行為だ。ただ、それは表面上だけであり、内面の世界が多様なことはわかる。


 例えば教師なら「待つ」という重要さをどの程度認識しているかが、力量の差となって現れる。授業場面では子どものどんな答えであっても「受ける」という引き出しがあるかないかだ。生活指導であれば、その子自身が成長を実感できるまで寄り添えるかという覚悟だ。「待つ」の深度が、生き方を決めていくようだ。


 さて、一般的な表現として「そわそわして待つ」「どきどきして待つ」「ぼんやり待つ」などという形容もある。しかしこの絵本ではそうした修飾がいっさいなく、ただ「まってる」だけが貫かれる。だからこそ内面が想像できるし、展開にもリズムが生まれる。欧州人の創った世界には、独特の軽やかさも感じられる。


 ふと、2月に掲示した坂村真民の詩「待つ」を思い出した。これは達観というより諦念に近い気がする。昭和期日本人の典型と考えられるし、その血も流れている。今「じっと待つ」ことは時流に合うとは言い難い。しかしその先に見えているものが有るや無しや、そこが問われているのではないか。

待ってもむだなことがある
待ってもだめなこともある
待ってもむなしきことばかり
それでもわたしはじっと待つ 

「ここは」からスタート

2021年03月30日 | 絵本
 絵本というカテゴリーを作っておきながら、ほとんど投稿できていないのはどういうわけだ!と自分に発破をかけてみる。

 一昨年から自前で購読している本も多いので紹介をかねて、書き散らしてみる。

 昨年の夏に『ここは』という絵本を買った。
 これは雑誌等でちょくちょく目にする詩人最果タヒが書いた一冊。
 絵は及川賢治



ここは、
おかあさんの
ひざのうえです。


が始まりの文章で、そのあとは
「○○○○○ でもあります。」
「○○○○○ でもあるね。」

という形で、おしまいまで続けられていく。

 哲学的?に読めば、自分がいる場の捉え方の拡大や、自己という存在の身体性に働きかけたり、俯瞰的な見方を教えてくれたりする。

 これを読み聞かせれば、どんな感想がでるだろうか。

 興味はある。
 しかし、自分自身の予想の幅が拡がっていないので、ちょっと無理かなという気がして、買って半年以上になるけれど人前で読んではいない。


 しかし、改めて読み、凄い!アイデア(笑)を思い付いた。
 もし自分が現役教員なら、これを読み聞かせてから、詩を作らせる。

 つまり
「ここは
 教室の
 じぶんの席です」

といった一文を書き出しに指定し、その次を考える作業を課すという展開だ。

 4年以上なら可能だろう。
 どんな見方をし、どんな表現が出てくるか。ちょっとワクワクする。
 図工に絡ませても面白いか…叶わないけど妄想している時間はそれなりに楽しい。




青臭いとしてもやはり

2021年03月16日 | 絵本
 学校での読み聞かせ、今年度分を振り返ってみる。

 「コロナ禍」(この語もずいぶん一般的になったなあ、一年前は使っていなかった)により、若干遅れたものの5月19日にスタートしていた。
 この時の時間や準備は印象深く、ブログにも記してある。

 Spirit of St.Louisを噛み締める

 そこに記した「工夫と挑戦」はどの程度達成できたのだろうか。

 量的な点を最初に記すと、21回延べ54冊(重複があり実質38冊)ということになる。
 本県、本地区でも感染者がいたとはいえ、拡大するに至らなかったので、9割方実施できたこと、また校内では距離をとりながらマスクなしで語らせてもらったことは有難かった。


 さて、改めて「工夫と挑戦」という観点を考えてみた時、これは結局、他からの刺激が重要だったとつくづく思う。
 その点で、秋に主催した「読み聞かせワークショップ」で、隣県から講師をお招きして学んだことと、自ら県で開催した講座に参加し、得たことは非常に大きい。

 読み方、語り方についてある程度の素養はあったものの、「絵本」となるとそこには当然、それなりのテクニックが存在する。
 例えば、次のページをめくるタイミングだ。
 「めくってから読む」だけではない、という技一つでも大きな違いがあった。


 また、世の中に数多溢れる絵本のどれを取り上げるか。
 専門家によってねらいや対象者による分類なども作成されている。
 しかし、やはりアマチュアにとって必要なのは、自分自身がその絵本と「いい出逢い」ができるかどうか、だろう。
 つまり、絵本のよさを心から感じ取れるかどうかだ。


 年度後半、受講した経験を生かして、落語や講談の絵本を何度か取り上げた。
 自前で本も購入もした。
 それは、きっと「声」に対する興味の強さが残っているからだろう。純然たる「絵本」の良さと言い切れるかは、少し疑問も残る。
 ただ、「語り」の強調と考えると、この選択は間違っていなかったとは思う。
 通常より練習量も必要であり、自分に発破をかけないとなかなか厳しい結果になることも思い知らされた。

 その意味で、青臭いとしても挑戦が努力や工夫を導くといってもいいか。

 他から見れば些細な挑戦でも、意欲のあるうちはボケないだろう。