おや、あの家からピアノが聴こえる。ふと風神は空を行く足を止めた。老いた作曲家が亡くなってから、あの家からピアノの音がすることは絶えてなかったはずだが。夫人はすぐれたピアニストだったが、夫を見送ったあとは弟子を育てるのに忙しくて、あの家のピアノは弾いていなかったはずだ。そう、あのピアノは少し調子外れなんだ。でも夫妻は、それが味わいなんだと言って無理に直そうとしなかった。初夏のややけだるい空気をはらんだような旋律は、途中で古いわらべ歌めいた調子を帯びる。風神の目の前に、幾人もの少女たちが軽やかな笑い声を立てながら駆けてゆく姿が浮かぶ。緑濃い庭の奥へと少女たちが消えたとき、風神は思い出す。あの家には、もうピアノなどないことを。さてはピアノに聴こえていたのは庭の葉ずれか、と苦笑いした風神は知るよしもなかった。同じころ遠く離れた東の地で、夫人の弟子のひとりが、想いを継いでその曲を奏でていたことなど。
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