SNファンタジック日報

フラメンコと音楽をテーマにファンタジーを書きつづる新渡 春(にいど・しゅん)の、あるいはファンタジックな日々の報告。

新・指先のおとぎ話『夜を越える』

2017-04-23 18:34:03 | 書いた話
もう少し早く宿を発てばよかった。馬を進めながら、男は焦りを覚えていた。夜が更けて、馬の歩みは遅くなっていた。明け方までに、山路を抜けて見晴らしのよい海側の街道に出たかったのだが、男の前には、狭い道が曲がりながら続いている。かといって、野宿をしている時間はない。どうにか朝までに山を越えなければ、乗るはずの船が出てしまう。馬にも無理はさせたくないが、あともう少し。祈る気持ちで手綱を引いたとき、不意に目の前に、白いものが現れた。馬がいなないて止まる。男も肝を冷やした。一瞬遅れて、その“白いもの”の正体がわかった。大きな十字架。なぜこんなところに──思う間もなく、男の耳に唄が聴こえた。「朝が来る、もう朝が来る……」唄は明らかに十字架から響いていた。体が浮く感覚があり、気づくと男と馬は、海沿いの街道にいた。朝の光が、男を照らす。信じられない思いで振り仰ぐと、教会の白い十字架が、眩しく照り映えていた。
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新・指先のおとぎ話『可愛い緑の鳥』

2017-04-14 13:57:13 | 書いた話
「籠の鳥、とはいうけど」友人は軽く笑った。「空の鳥籠は、ただの籠。いつまでも飾っておくものでもないと思うけどね」あたしは頷いて、「でも」と言い添える。「もしかしたら、戻ってくるかもしれないし」緑の羽が、陽に透けると懐かしい高原の樹の色になる。だから格別に可愛かった。危ないことのないよう吊るす場所にも気をつかい、自分のこと以上にこまやかに世話をした──つもりだ。なのにあるとき、いきなり姿が見えなくなっていたのだ。扉を開け放しにした覚えもないし、動物が外から手を出せるほどの隙間はない。まるで空気に溶けるように、消えてしまった。そのまま季節が移って、燕が来る季節になった。ある日あたしは空の鳥籠を眺めて、つい唄を口ずさんだ。「緑の小鳥、片隅で、燕が通るの待っている……」ぱたぱた、軽い羽音がして、懐かしい樹の色の小鳥が、籠の中にいた。近くの軒下に憩う燕たちを、緑の羽を広げて興味深そうに眺めながら。
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新・指先のおとぎ話『松は緑に』

2017-04-08 13:02:58 | 書いた話
「悪いわね、こんな部屋しかなくて」人の好さそうな宿の女将は、丸顔を困り顔にしてみせた。「ちょうど祭りの時期で」「いえ、充分です」その答えに、嘘はなかった。部屋があったのがむしろ奇跡だ。立身を期した首都行きの最終列車を逃し、何軒も断られた挙句飛び込んだ宿なのだから。「急ごしらえでね」女将が繰り返し詫びたのにも一理はあった。祭りで部屋が足りず、納屋か何かを仕切ったのだろう。シャワーのたぐいはなく、古い寝藁に毛布をかけてベッドにしてあった。だが充分だ。どうせ明日の朝は早い。「……たとえ緑の松の下、床の上にぞ寝ようとも、さ」何げなく、懐かしい郷里の唄が口をついて出た。それに比べれば、寝藁のベッドは上等だ。心地よく眠りについて、夜中ふと目覚めると、彼は立派なマツ材のベッドに寝ているのだった。瑞々しい緑の松の香りが辺りに広がる。彼は起き上がり、列車の切符を捨てた。夢を追う前に、郷里に寄るのも悪くない。
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