いい男に、なった。
今こそ、還れるかしら。わたしも。
断ち切るしかない、想い。
あのひとと別れるのは、あのひとと出逢ったこの季節しかないのだから。
早すぎる桜が、時ならぬ雨に打たれて俯いていた。
花冷えの枝かげに、あのひとがわたしを見つける。三味線を抱いた、初々しい若者。おさなさの残る顔立ちをしたあのひとが、わたしへと指を伸ばす。
わたしは身を縮める。つぶされやしないかしら。
おどろくような丁寧さで、枝からあのひとの指へと移るわたしのからだ。優しく拭い取られる、雨のしずく。
あのひとの唇が、言葉をつむぐ。
「胡蝶……」
と言っていたのだと、人の言葉がわかるそよ風が教えてくれた。それがわたしの名前なのだと。
けれどわたしには、自分の名前なんてどうでもよかった。
桜の季節が来るたびに、花冷えの枝かげであのひとを待った。
三十三の春がめぐった。
あのひとに逢える春が。
周りはみんな逝ってしまった。どうしてかわたしは生きて、あのひとを待っていた。
今年、あのひとのかたわらに美しいひとが寄り添っていた。
いい男になった、あのひとのそばに。
胡蝶をえがく、評判の女絵師だという。
だから、今、わたしは還ろう。
あのひとの三味線に送られて、還ろう。
還る場所は、この羽がきっと知っている。
あのひとの想いをあふれるほどに受けた、花のいろをしたこの羽が。
Dedicated to Teresa Chiba
今こそ、還れるかしら。わたしも。
断ち切るしかない、想い。
あのひとと別れるのは、あのひとと出逢ったこの季節しかないのだから。
早すぎる桜が、時ならぬ雨に打たれて俯いていた。
花冷えの枝かげに、あのひとがわたしを見つける。三味線を抱いた、初々しい若者。おさなさの残る顔立ちをしたあのひとが、わたしへと指を伸ばす。
わたしは身を縮める。つぶされやしないかしら。
おどろくような丁寧さで、枝からあのひとの指へと移るわたしのからだ。優しく拭い取られる、雨のしずく。
あのひとの唇が、言葉をつむぐ。
「胡蝶……」
と言っていたのだと、人の言葉がわかるそよ風が教えてくれた。それがわたしの名前なのだと。
けれどわたしには、自分の名前なんてどうでもよかった。
桜の季節が来るたびに、花冷えの枝かげであのひとを待った。
三十三の春がめぐった。
あのひとに逢える春が。
周りはみんな逝ってしまった。どうしてかわたしは生きて、あのひとを待っていた。
今年、あのひとのかたわらに美しいひとが寄り添っていた。
いい男になった、あのひとのそばに。
胡蝶をえがく、評判の女絵師だという。
だから、今、わたしは還ろう。
あのひとの三味線に送られて、還ろう。
還る場所は、この羽がきっと知っている。
あのひとの想いをあふれるほどに受けた、花のいろをしたこの羽が。
Dedicated to Teresa Chiba