みずからの声が、山神・息吹(イブ)の声になっている。水神の驚きは、それだけに留まらなかった。側仕えの山吹の涙にほだされるまでもない。己の変化に、気づかないわけにはいられなかった。変わったのは、声だけではなかった。姿もまた、ひともとの青柳さながら、優しくたおやかな、息吹そのひとの姿になっていたのだから。「いったい何が……」水神は呟いた──息吹の、声で。心は、水神のままであるというのに。“わたくしを、その身にお納めくださいませ。”──息吹の言葉が、水神の胸によみがえる。水神は、愕然と我が身をかえりみた。息吹の声、息吹の姿。息吹が己の枝に宿した朝の露──それを、水神は飲んだ。その朝露に息吹が託したものは──息吹に残されたいのち、息吹の魂、水神への想いそのものであったのだ。いま、水神はあらためてそのことを知った。「……わかった、息吹殿」水神は言った。元の己の声で。「ともに生きよう。そして、唄おう」
側仕えの山吹が水神に伝えた、山神・息吹(イブ)の深い、けれど秘められた想い。水神には告げられることなく、それでも、門外不出のその唄を聴き覚えるほどに一途で健気だった想い。水神は息吹のたおやかな姿を心に描いた。そして、彼女が想いの丈を込めて水神に託した朝露の名残りを身の奥に感じたとき、水神は、自分の中に、これまでに味わったことのない感覚がひたひたと充ちてくるのをおぼえた。我が身が我が身でありながら、我が身でなくなるような……。ひきつったように、山吹が目を見開いた。一度、二度、大きく喘ぐように息を呑む。「……山吹、殿?」自らが発した声に水神が驚いたのと、「姫さま……!」山吹が声を振り絞るのとは、ほぼ同時であった。そのまま山吹は、はらはらと涙をこぼしながら、ひと足、またひと足、水神に歩み寄る。「これはいったい……」そう問いかけて、水神もあらためて気づく。自分の声が、息吹のそれになっていることに。
「姫さまは」水神の帰り支度を始めながら、山吹がぽつりと口をひらいた。けれどその目は水神にではなく、その傍らの華奢な柳に注がれたままであった。女あるじである息吹(イブ)が人の身でなくなっても、どこまでも側仕えの仕事を全うしようとしている健気さに、水神は胸を打たれた。水神の沈黙を、気遣いと取ったのだろう。意を決したように、山吹は言葉を継いだ。「姫さまは、水神の君のお歌が大好きでございました。水神の君がお近くを通られるたび、耳さとく聴きつけてはご一緒に口ずさんでおられました」「……」水神はひそかに驚いた。水神はその歌をもて水を治める──修行を積んで覚えた歌の数かずを、山神とはいいながら、聴いただけで覚えられるだろうか。「……それほどまでに、お慕いしていたのです、姫さまは」水神の心を読んだかのように、山吹。「お会いしたこともない、水神の君のことを」そのとき、何かを言いたげに、柳の枝がそっと揺れた。
「わたくしの本性は、弟・今際(イマワ)とともに山を護ります山の竜。ですが、本体はひともとの柳でございます。その枝に宿る朝の露、そこにわたくしの残るいのちをすべて注ぎます。どうぞその露をお飲みくださいませ」純白の山椿のようだった息吹(イブ)の姿は、山吹が涙にくれながらそっと被せる衣の陰で、徐々に変化していった。彼女の姿がかききえる前、薄い衣を透かすようにして水神の目に映ったのは、優しく華奢な白竜であった。「息吹殿──」呼びかけようとした声を、水神はそっと呑んだ。どうせ聞こえまいと思ったからではない。あまりにも健気な息吹の決意を、今はただ見届けてやりたかった。消えたかに見えた場所に、しばらくして、動きがあった。「姫さま……」山吹が、堪えかねたような声とともに衣をはらりと落とす。「……!」水神の目の先に、先ほどの白竜を彷彿させる、華奢な柳があった。土もないのに、自らの力ですっくと立つ柳であった。
「わたくしを、その身にお納めくださいませ」──山神・息吹(イブ)の申し出は、水神を戸惑わせた。「息吹殿。それはいったい……」「家族との告別は済ませてまいりましたゆえ、ご懸念なさいませんように」その言葉で、水神にも得心のいくところはあった。仮にも、地帝の娘の婚礼である。それだというのにその場には、父たる地帝はおろか、ほかの家族、親族のたぐいが誰も見当たらない。控えているのは、先ほど声をかけてきた山吹という側仕えただひとり。もともとこうした晴れの場に同道させる親族、眷属もなく、根っからの独り身の己れとは話が違うだろう。息吹が自らの意思でそうしたというのなら、このありようも腑に落ちる。それきり息吹も黙り込み、しばしの時が過ぎた。どこか遠くで、鳥が鳴いた。(サヨナキドリ……)水神はかすかにおもてを上げた。夜明けが、少しずつ迫っている。残された時間は多くはなかった。「承知した、息吹殿」水神は言った。
細くたおやかな調子でありながら、息吹(イブ)の声は、側仕えの山吹を一言で下がらせるほどに凛と響いた。そしてその声は、水神の胸のうちにもまた、まっすぐなひと筋の光のように届いたのだった。そのとき、水神はあらためて確信した。息吹が山神であることを。彼女の声から伝わるもの、それはまさしく、健やかな地の力をあやつる山神ならではの、魂の息吹きであった。「……ま」「……」「……水神さま」呼ばれていることに気づき、われにもなく水神はうろたえた。「──ご無礼を」息吹は再び、水神の前に深くこうべを垂れる。「一世一代のお願いがございまする」「──なんなりと」同情した、わけではない。だが、自分にできることなら、叶えてやりたいと思った。息吹というこの健気な“新妻”に、力が残っているうちに。息吹の白い頬に、微かな安堵と感謝の色が浮かぶ。「わたくしを、その身にお納めくださいませ」言い切ったその言葉は、水神を驚かせた。
──お待ちあそばしませ。水神に声をかけたのは、息吹姫のかたわらに影のように付きしたがっていた女性だった。年かっこうからして、女官長といったところだろうか。息吹は驚いたように、その女性に視線を向けた。「申し訳ございません、姫さま」女性は目を伏せる。「つい差し出た振舞いをいたしました」そう言いながらも、ふたたび女性は水神に向き直る。「水神のきみには遠路のお越し、篤く御礼申し上げます。ですがご覧の通り姫さまは、お加減がすぐれませぬ。せっかくのお成りではございますが──」「よい」今度は息吹が、口をはさむ番だった。「姫さま」息吹は相変わらず消え入りそうな、けれど芯の強さを湛えたまなざしを女性に据える。「──山吹」「はい」「そなたの気持ちは嬉しい。でも、わたくしは今宵、水神さまに嫁ぐと決めたのです。どうか理解しておくれ」それは決然とした一言だった。山吹と呼ばれた女性も、もはや口をつぐむしかなかった。
「息吹(イブ)殿か」それは咄嗟に水神の口をついて出た問いだった。本来ならば、案内を待つべきだったろう。だが、花嫁の姿を一目見たとき、つい問わずにはいられなかった。それほどの美しさを、息吹は宿していた。そして、春の淡雪よりなお白い花嫁装束に身を包んだその姿は、透き通るほどに華奢でもあった。(山神、と聞いていたが……)いま目の前に座す息吹を見ていると、山神という雰囲気ではなかった。純白の装束のせいもあるのだろうが、水神の前に控えた息吹は、むしろ一輪の山椿の花のように映った。ただ、彼女の風情があまりにも儚げなのがどうしても気がかりではあった。この様子では、僅かな力を加えても、はらはらと散ってしまいそうであった。そんな水神の戸惑いを察したように、息吹が口をひらいた。「どうぞ、お進みください」いざないに応えて歩を進めようとした水神を、落ち着いた女性の声が押しとどめる。「お待ちあそばしませ、水神の君」
乳白色の霧が辺りを取り巻いて、婚礼の行列はなかなか進まなかった。別に急ぐ旅でもないが、花嫁とその一族を待たせているのが気がかりではあった。何せ相手は、地帝の姫君なのだ。そのとき、まるで水神の考えを読んだように、輿の外から声がした。「水神さま」それはどうやら、出迎え役に遣わされてきた神の声だった。返事代わりに水神は顔を覗かせる。人の好さそうな丸顔が見えた。確か牧の神と言ったろうか。輿を曳く馬を操るのになかなか長けていた。水神の顔を目にするや、その丸顔に恐縮の色が浮かぶ。「さぞお退屈でございましょう」「大丈夫ですよ、ご心配なく」寛容な返答を受けて、恐縮と感謝が入り交じる。「おそらくあと一刻ばかりかと」牧の神の見通しは正しかった。一刻ほどして、行列は歩みを止めた。 霧が嘘のように晴れて、澄んだ山の気にも似た、涼しげな風情をたたえた館が現れた。輿から降りた水神を待っていたのは、美しい花嫁だった。
男女双方の声──先の水神の想いは、天宮に召還された遠い日の記憶へと迷い込む。「息吹(イブ)……殿?」その名には、聞き覚えがあった。地帝が得たという双子、その片方が息吹という名前だったはずだ。それだけで覚えていたわけではない。双子のもう一方が、確か今際(イマワ)といった。息吹と、今際。始まりと終わりが対になったようだ、と、印象に残っていたのだ。「左様。その息吹殿を、そなたに嫁がせたいとの話が来ておる」天帝じきじきの呼び出しとあれば、それはもはや下命だった。水神の位に就いて三百年ばかり、そろそろ妻を迎えてもよい頃合いではあった。「よきように」短い返事で、事は決まった。天帝は満足げに言った。「水神としてのそなたの才は際立っておる。地帝の婿となれば、天地をつなぐ神としての役割も期されよう。よろしく頼む」「御意」涼やかに水神は笑った。立身に関心はなかったが、せっかくの賛辞を無下にすることもあるまい。