SNファンタジック日報

フラメンコと音楽をテーマにファンタジーを書きつづる新渡 春(にいど・しゅん)の、あるいはファンタジックな日々の報告。

椿

2009-02-28 14:48:20 | Weblog
昔から、椿が好きだった。庭には、母の実家からもらってきたものも含め幾本かの椿が植わっている。なかには植木市で買ってきたものの手入れが悪く、なくなってしまったものもあるが……。
どちらかというと、八重系の華やかな椿よりも侘助系のシンプルな椿が好きだ。花びらが折り重なっていないので、地面に落ちても何やら凛とした風情がある。散らずに首ごと花が落ちることから武家では嫌われたとの言い伝えもあるが、咲いた形のまま静かにポトリと落ちる花に、わたしはむしろ潔さを感じる。
椿というと新年の生け花にもよく使われるせいか、つい寒い時期の花というイメージがある。しかしその字をよく見てみれば、木へんに春と書く。つまり、椿は春の花なのだ。季語でも春に分類されている。椿を詠んだ俳句で名高いのは、やはり河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」だろう。椿のありようを端的に詠んだ名句だと思う。
庭の椿に先駆けて、近所の雑木林では今、藪椿が咲き誇っている。堂々たる大木から紅色の椿が次々と落ちてくるさまには、なんともいえず惹き付けられる。花を踏むのがしのびなく、つい避けて歩くので椿の木の下でだけやや妙な歩き方になっているかもしれない。

日めくり

2009-02-27 18:00:54 | Weblog
2月も末になっての話題でもあるまいが、日めくりの話。
我が家では父もわたしも自宅で執筆業をしているため、いわば自宅と事務所を兼ねている。そのため公私を問わず、電話は必ず家に入る。わたしは携帯を使っているため家の電話でのやりとりはほとんどなくなったが、父はいまだ携帯を持たないため、自宅の電話がすべてだ。
電話のかたわらには昔ながらの日めくりメモを置いている。日付、曜日、大安や仏滅など、陰暦の何月何日かなどがいろいろ記されたあれだ。電話の内容をメモするのがいちばんの目的だが、父かわたしが外出するときには、そこに行き先と夕食を家でとるかどうかの○×を記しておく。
それが結構長年の習慣になっていたのだが、去年の暮れはわたしの入院、手術などで落ち着かなかったせいか、この日めくりメモを買い損ねた。なんとか去年のメモのうち何も記述のない日のページを選んで活用していた。しかしだんだんそのページもなくなってきた。
そこでふと父が思い出したのが、おととしの暮れうっかり余分に買ってあった日めくりメモだ。まだ封も開けられないまま、転がしてあったそれを出してきて、せっかくなので使おうという。曜日はずれているが、充分実用に堪える。まあ去年は閏年だったせいで、2月29日があるのがご愛嬌だ(笑)。1年以上使われずに眠っていた日めくりメモも、これからの10ヵ月使われれば少しは報われるだろうか。それを願いつつ、明日からさっそく使うこととしよう。

かきかけ

2009-02-26 17:56:58 | Weblog
作家仲間のKさんと、仕上がっていないが捨てきれない作品(未満)をどうしている?という話になった。まああまりに半端なものは上書きしたりして、と答えながら、とあるフォルダの存在を思い出した。
その名も、ズバリ「かきかけ」フォルダ。いずれ作品に活かせるだろうと、アイディアや書き出しなどをまとめたフォルダだ。中には、登場人物の会話だけというものもある。
昔(もう20年以上も前の話……)は原稿用紙を使っていたため、使いかけの原稿用紙が幾冊にもなってしまっていた。あまりに書きかけ作品が溜まらないよう、作品の出来はともかく何はともあれ書き上げる努力はしていたものだ。しかしいつしか原稿用紙からパソコンに執筆用具がすっかり変わり、それとともに、かきかけ作品がいくつも蓄積されていったのだ。
その中には当のKさんと共同で執筆中の物語もある。設定は最後まで通っているのに、実にもったいない話だ。長い話がなかなか書けないわたしだが、今日Kさんからまたいいアイディアをもらったので、しばらくぶりに書き出してみようかと思う。「かきかけ」フォルダの中で永眠させないためにも、この意欲が失せないうちに手を打たねば。
残る問題は、そろそろ力尽きかけているパソコンである。パソコンが先にオシャカになっては、「かきかけ」はおろかすべての作品が取り出せなくなる。むしろ執筆より先に手を打つべきはこちらかもしれないと、少々真剣に悩み始めている。

反省と覚醒

2009-02-25 12:33:12 | Weblog
先日、絵師の照紗さん、踊り子ルナさんとのコラボ案について書いた。
その後ふたりとメールのやりとりをしたが、そこでつい弱気の虫が出た。確かに今回のコラボ、根底にはわたしの小説がある(『パセオフラメンコ』2008年12月号掲載、「路地裏の乙女」)。それに、照紗さんがすばらしい絵を添えてくれたことも大きかった。しかし、いきいきとコラボ案について語る二人の話に耳を傾けながら、この先わたしができることはなんだろうと思ったらふと心もとなくなってしまったのだ。せっかく次々といい案が耳元で聞こえてくるのに、どうも自分のなすべきことが見つけきれない。
そんなわたしを、メール越しに厳しい言葉で叱ってくれたのはるなさんだった。おかげで、やっと目が覚めた。そうだ、全体の構成も考えねばならないし、歌詞も足さねばならない。わたしにはまだまだやるべきことがあるのだ。
照紗さんも「むかうところ敵なし」の意気込みを見せてくれている。幸い、賛同してくれる人たちも現れている。ここでわたしが弱気になってどうする。
覚醒し、反省して、コラボ原案を練り直してみた。そうしたら不思議なもので、新しい歌詞もすらりと湧いてきた。われながら単純きわまりない。
ルナさん、照紗さん、力強い言葉をありがとう。もう逃げません。あらためていいコラボになるよう尽力します。どうぞよろしく!

初めて聴く

2009-02-24 19:04:11 | Weblog
今日は例の作詞を手がけた舞踊家さんのスタジオで、ひとまず最後の打ち合わせ。次にスペイン人舞踊家の彼が来日するのは10月の本番前になるため、いろいろ綿密な確認作業が行われた。
毎日稽古が繰り返されたというだけあり、稽古のビデオを見ると、振り付けも前回以上に整ったものになっていた。通し稽古の形をとっているためこの日は演奏陣もそろっており、初めて自分の作った歌詞が歌われているのを聴くことができた。歌い手はさすがプロフェッショナルといおうか、短い期間でよく歌詞を覚えてテンション高く歌いあげてくれていた。採用してくれたとわかってはいても、やはり実際歌われているのを耳にすると感慨深いものがあった。ちなみにそれはアレグリアスのほうで、もう1曲のナナのほうは踊り手が演技しながらうたう趣向。こちらのほうも本番までにどう仕上がるか、とても楽しみだ。
さて、残るはわたしの訳詞だ。まだ気恥ずかしさはあるが、使われることが確定した以上はできるだけ早くこちらも形にせねばならない。ひとつ覚悟を決めて頑張るとしよう。

アカデミー賞

2009-02-23 16:43:55 | Weblog
つい午前中からチャンネルをザッピングして見守ってしまったアカデミー賞の発表。結果、短編アニメーション部門に『つみきのいえ』、外国語映画部門に『おくりびと』というめでたいダブル受賞となった(いま気づいたがタイトルがどちらもひらがなだけだ)。関係者の皆さんはさぞ嬉しいことだろう。
ただ、残念なことに流行りものにも映画にもダブルで疎いわたしは、両方とも見ていない。今日の受賞がきっかけでしばらく映画館は賑わうだろうし、並んで映画を見るほどの根性はない。どうやら今回も、縁のないままに過ぎていきそうだ。
ただひとつびっくりしたのは、『おくりびと』受賞のニュースが各局「ニュース速報」として流されたこと。ちょうどニュースショーの少ない時間帯に発表されたせいだろうが、ニュース速報にまですることだろうかと少々笑ってしまった。いろいろあっても、日本はまだ平和だなあと感じた次第だ。

猫の日

2009-02-22 17:00:55 | Weblog
今日2月22日はその音を「にゃんにゃんにゃん」と読んで、猫の日なのだそうだ。で、某新聞によると、猫の名前で一番人気があるのは、5年連続で「モモ」なのだという。
わたしも子どものころはあまり猫が好きではなかった。あるころ猫好きの母が野良猫に餌をやりはじめ、その猫をきっかけにして、一大猫ファミリーができあがった。いちばん多いときには家系図をつくって整理するようだった。
すべての猫が何かしらの思い出を残していった。その中には人気ランキング1位「モモ」もいたが、小さいころもらわれていったので彼女についてはあまり記憶がない。特に印象深いのは、かなり初期にいたミンゴロー。明るい金茶の雄猫だった。当時中学生だったわたしが聴いていた英会話番組の中のフレーズ“What do you mean, Goro?”が名前の由来だった。あとは、マーナというキジ虎。マヌケのマーちゃんと呼ばれてしまうほど間の抜けたエピソードに事欠かない女の子だった。池には落ちる、枝から降りられなくなる、軒で昼寝すればコケ落ちる。12歳まで生きたのだが最後まで赤ちゃんのような猫だった。ちなみにこの猫は母におんぶするのが好きだった。
今ではすっかり猫のいなくなった我が家だが、それらの猫たちを思い出すとあのふかりとした感触が懐かしい。最近世間では「猫カフェ」というものも流行っているそうだが、行ってみたらうっかりハマりそうで、なかなか足を運べずにいる。

『三つの河のバラード』

2009-02-21 18:45:27 | 聴いた曲
スペインの詩人・劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカ。1898年生まれた彼は、1936年スペイン内戦のさなか正当な理由もなく銃殺された。その作品は今も読み継がれ、世界に多くの愛好家を生んでいる。
音楽通でもありピアノの名手でもあったロルカは、スペイン各地に残る古謡を集め、貴重な楽譜と録音を残した。これら13の古謡は、今もクラシック、フラメンコの世界で愛奏されている。ほかにも彼の詩を用いた曲はいろいろあるが、フラメンコの世界で好んで歌われているのが『三つの河のバラード』だ。
ここに歌われる三つの河とは、アンダルシアを東西に貫いて流れるグアダルキビール河と、グラナダを中心として流れるダーロ、ヘニルの2本の河。グアダルキビールが結構な大河であるのに対し、ダーロ、ヘニルのほうは(特に水の少ない時期は)かなりささやかな印象を与える。ロルカはその三つの河に捧げたバラードの中で、グアダルキビールをアンダルシアの都セビージャ、ダーロとヘニルを古都グラナダの河として歌っている。
「アイ、アモール(ああ、愛よ)……」というリフレインが印象的な美しい詩には、たとえばこういう一節がある。

グアダルキビール河は
オレンジとオリーブの間をゆく
グラナダのふたつの河は
雪から小麦へとくだる

たった4行の詩の中に、アンダルシア的なイメージが満ち溢れている。ちなみにロルカは、グラナダ郊外の町の出身だった。詩の全体を見ても、華やかなセビージャ、翳りを帯びたグラナダのイメージがさまざまな表現で描き出され、鮮明な像を結ぶ。郷土愛の強いアンダルシア人のこと、グラナダの描写により愛情がこもっているように見えるのは許さねばならないだろう。
『三つの河のバラード』は、きのう慌ててお知らせした照紗さん、ルナさんとのコラボでも登場する予定だ。ロルカの名作がどう生まれ変わるか、楽しみに見守っているところだ。

コラボ案

2009-02-20 23:59:29 | Weblog
一昨年、友人照紗さんと企画したライブペインティングとフラメンコのコラボレーション。
今年もその企画がいよいよ動き出した。
躍り手の友人ルナと3人でいろいろ話し、秋には形にしたいねとの目標を立てて打ち合わせ。
相変わらずアイディアの泉のような二人のクリエイターと一緒に何ができるのか、考えるとわくわくする。わたしも頑張らなければ。

今度は訳詞

2009-02-19 17:25:01 | Weblog
さて、どうやらわたしの作った詞がフラメンコの舞台に乗りそうだという話はきのう書いた。
実はきのうスタジオで、舞踊家さんから頼まれた。「わたしが訳すと直訳になってしまうので、訳詞をお願いできませんか」。彼女もスペイン語は話せるのだが、詩の訳は確かに倒置があったり何だりでいささか面倒だ。わたしも訳詞の経験はあり、訳すのはやぶさかではない。
感謝され引き受けて、帰宅してから詞のプリントアウトを見てはたと気づいた。うち1曲半は、自分の詞なのである……。
スペイン人と会話または手紙のやりとりをした方には覚えがあると思うが、スペイン語というのは言葉は悪いが総じて暑苦しくなる。いや、ふつうに書いてもしゃべっても別に構わないのだが、なんだか自分がいやに冷淡な人間に思えてしまうのだ。勢い、言葉つきに熱が入る。わたしの経験でいうと、相手が南部アンダルシア地方の人間だとそれに拍車がかかる。彼らの熱さにつられて出すこちらの返事など、封をする前に読み返すと自分の文章の温度の高さにびっくりするほどだ。たいていは書き直すのももったいないのでそのまま出してしまうのだが……。
さて本題に戻って訳詞の話。自分で書いた詞ではあるが、スペイン語で歌われることを想定してあるため当然あちこちに熱い言葉が出てくる。それをスペイン人の彼が改訂してくれたため、よけい訳すのが照れくさくなってしまった箇所もある。しかし、いい加減な訳もできない。やむを得ず今、頭を抱えながら、暑苦しい詞を少しずつ訳している最中だ。しかもよせばいいのに定型詩による訳に挑戦しているものだからなおさら言葉が限られる。作詞に続き、いやもしかしたらそれ以上に頭をひねる日が続きそうだ。