米津氏の家祖は、藤原道隆でその末裔で信濃守親康で、その子親勝を米津大夫といいました。戦国時代には米津勝信・常春・政信が松平氏に仕えて活躍した。戦国時代には、常春の系統は子に代で断絶したが、政信の系統が残った。第5代の米津田盛の代に大名に列し、初めて武蔵国久喜藩1万2千石(後に分知で1万1千石)、出羽国長瀞藩1万1千石の領地を納めた。
久喜藩の初代藩主は、米津政武(まさたけ)で米津田盛の嫡男として生まれた。父の死去(1684)により家督を継ぎ1万5千石の所領のうち、3千石を弟・米津田賢の分与いたため1万2千石の大名となり藩庁を武蔵埼玉郡久喜に置いた。1687年5月寺社奉行に任じられたが、勤務怠慢により翌年10月罷免された。1698年長男の政矩(まさのり)に家督を譲った。米津政矩は、大阪加番に任じられ、大阪に赴任するが在任中の1703年1月に大阪で死去した。享年29歳。弟の政容(まさよし)が継いだ。政容は、長兄・政矩が家督を継いだ時、上総・下総国内で1000石を分与されて、寄合旗本に列した。その後は第5代将軍・徳川綱吉のもとで小姓並み、次いで小姓として仕えていた。政矩が早世したため、その養子となって久喜藩の家督を継いだ。このとき1000石は幕府に収公されたため、久喜藩は1万1千石となった。
久喜藩の初代藩主は、米津政武(まさたけ)で米津田盛の嫡男として生まれた。父の死去(1684)により家督を継ぎ1万5千石の所領のうち、3千石を弟・米津田賢の分与いたため1万2千石の大名となり藩庁を武蔵埼玉郡久喜に置いた。1687年5月寺社奉行に任じられたが、勤務怠慢により翌年10月罷免された。1698年長男の政矩(まさのり)に家督を譲った。米津政矩は、大阪加番に任じられ、大阪に赴任するが在任中の1703年1月に大阪で死去した。享年29歳。弟の政容(まさよし)が継いだ。政容は、長兄・政矩が家督を継いだ時、上総・下総国内で1000石を分与されて、寄合旗本に列した。その後は第5代将軍・徳川綱吉のもとで小姓並み、次いで小姓として仕えていた。政矩が早世したため、その養子となって久喜藩の家督を継いだ。このとき1000石は幕府に収公されたため、久喜藩は1万1千石となった。