『中島撫山』といったら久喜市かと勝手に思っていましたが、白岡市に中島撫山による作品が多数あるそうです。撫山の研究者の第一人者の村山 吉廣早稲田・文学部名誉教授が言うんですから間違いないですよ。何で白岡なのか、それは撫山が書いた石碑の漢文であり書です。中島撫山は平民で無冠の人でありながら、石碑の文を100以上も書いているそうです。その記念石碑が白岡市に多数あります。石碑のほか撫山による掲額、書も多数あります。白岡市内で撫山の「幸魂教舎」で学んだ「塾生名簿」に37名の方が記載されています。塾OBのひとから頼まれて碑文、掲額、書画を数多く書いています。その他、白岡八幡神社、稲荷神社、住吉神社、白岡柴山伏越の地、白岡駅前の「新設白岡車站之記があります。書にいたっては個人所有で襖に書かれたもの、捲り(屏風、襖などに貼ってあった書画をはがしたもの、また表装しないもの)のままのものが多数あるそうです。また、幕末から明治維新にかけて活躍した新井白石も白岡に居を構え,遣唐使(通信使)が白石の館に来たと言われています。