人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

感じられるものは、神のハタラキしかない!

2024-05-04 09:58:13 | 
少し前に、宗教哲学者の滝沢克己先生の神と人間との根本的関係性を表す、“不可分、不可同、不可逆“(神と人間は分けることは出来ない、神と人間は同じではない、限りある人間の側から神につながることは出来ない)ということを取り上げたのですが、これはもう、私がここで畳みかけるように言って来たことと同調していると言ってもいいのです。
この中で、私が特に強調したいことは、“不可逆“の部分なのです。
というのも、宗教でもスピでも、このことが十分に認識されていないきらいが感じられるからなのです。
思い、為そうとする自分からはけっして神につながることは出来ない!、そういう自分からは自分の思い、力を超えることは出来ないということです。
そこには厳然とした法則というか秩序が存しているのです。これは律法とか倫理の問題ではありません。
そもそも、神というものはどこで知らされ、示されるのでしょうか?
といって私は未だに、実体あるものとしての神のことは知りません、又知る必要もありません。神は私の思いを全く超えたものなのだから!
実にこのことが、神的なものを直接的に知ることを示すものに他ならないのです。
私の思い、力を超えて、それが如何にその前では無力であることを知らしめる、そのハタラキというものは、他に何ものも存在しないからなのです。
神の存在は決して分からない。しかしかくも、アリアリと私のすべてにハタラキかけるものは絶えて無い!...それは私を無化させるものであったのです。
宗教、スピ界隈には今も尚、手放しで“人間は元々神と一つなのです、悟っているのです“、などといった言葉も聞かれます。
私はこの無化のプロセス、“霊と火の洗礼“を受けたことの無い者のかかる言説など全く信用してません。
古来より様々な宗教的回心の記録が残されていますが、表現の違いはあれど、この思いを超えたものに出くわすことに触れていないものは皆無と言ってもいいでしょう。
そういうもの無しに、“私は無になりました、神と一つになりました、悟りました“、と思うのも、言うのも勝手でしょう。誰がそう言い得るのか?
しかし、それは正に思っているだけなのではないか!
又それは、思いに囚われた人間が、神の道、悟りの道を取り込んでしまうことと言ってもいい...そうなると、その道はずっと閉ざされるに至るだけでしょう。
この意味で、その道にあっては、神的なものと人間は、切り離されるものでなく...“不可分“、又思い、為そうとする自分と、“本来“神と一つである自分とは、決して同じではあり得ず...“不可同“、表層に限定された自分を超えたもの、上よりの力、あるいは自己の根源からのハタラキかけ無しには、道は決して開かれるものではない...“不可逆“、ということが示されるのです。
改めて意識されることは、ただそこには、神のハタラキしかないようにも感じられて来ます。
というより感じられるものは、それしか無いのではないか?!
少なくとも、こうしてこのようなことを言い表せるのは、それ無しには出来得ないのは確かなことです!...



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