人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神慮と覚醒

2019-09-06 12:04:37 | 覚醒
"覚醒という事態は神的意志、神慮というもの無しに起こり得ない"とは、何度強調しても、し過ぎることはありません。
私がチョイと知ってる某は、"完全覚醒すると、宇宙の運行が妨げられるので、神(宇宙意志?)の意向に沿わない云々..."などとブログに書いていました。
分かるはずのない神の意志、宇宙の運行について、他人の教説に依存して、こういう空想ごと、妄想ごとにうつつを抜かしている御仁には覚醒といったことは決して起こらないでしょう。
何故ならば、そういう思考マインドというものを置いていかなければ、けっして覚醒の扉は開かれないからです。
まして"完全..."などと宣うとはi
こういう人はずっと自分の意志想念で、そういうものに与れるという思いを拭い去ることが出来ないようなのです。 どこまでも主我的なのです。
だからそういう心根をくすぐる"完全"、だの"究極"だのに思いが向いてしまうのでしょう。
こう、エラそうなこと言っている私は、実は神のことなど分からないし、そのご意志も分かったなどとは言えません。
でも、強烈にそういうものを感じたことはあります。言うまでもなく、思いを超えた事態の中で...ということは、それはもはや理屈でないということなんですが...
"今、私の実存に神的なものが臨んでいる...神と共にある..." これは、そもそも覚醒という事態は、実にこのことを他所にしてあろうはずのないことを言い表しているつもりですが、ここに"神のご意志が感じられる"...か、どうかは理屈ではどうかは知らんけど、こんな分かりきったことは無いのですi だからそうなっているのですから...
そう、神は私をそのみ元につなげることを望んでおられるのですi (こう書いていて"じんじん"と大変なのですi)
こういうことを理屈の沙汰にしている者には絶対に分かりようのないことです。
そして、神は同様にそこから私が離れることを悲しまれる...(そう、感じちゃったのですi)
さらに、神はずっと私と一つに在ることを望まれるようです。
私は完全覚醒とか、悟りの段階の頂点だとか、ここからズレるようなことは知らないし、知りたくもありません。
でも、私は感じました。神とずっと一つで在るということは...人間が考える生死の問題を超えているということを...
人間の倫理はどこまでも、"何がどうあっても、あなたは生きなければならないi"というものでしょう。
しかし、私が感じたのはこういうものです。
"お前がお前の世界で生きたいのなら、さあ、起きて行くがいい...でもずっとこの至福の世界で休み続けてもいいんだよ..."
誤解しないで頂きたいことは、この"ずっと神と共にある"ことは、直ちに死を意味することではないことです。まして自死の問題などではありません。
それは、"生きても、死んでも(?)"神と共にある、ということです。それは、この神を無きものにしている問題だらけの現世を生きる中でも可能なはずです。
しかし、それが普通に生活することが困難なくらい、超脱的、現世離れした在り方に導かれることもあるかもしれません。これはある意味では死を意味するのかも知れませんが...
中には本当に遷化したように、この世から無くなってしまうこともあるかもしれません。
そして、生きて生きるか、死んで生きるかは、私やあなたにゆだねられているのです。それは大本の自己の自由意志によるのでしょう。
どっちみち、このことはちっぽけな自分が思い描いているようなことじゃないのです。
観念ごとを超えて、真摯に神に、自己に向き合わなければ、けっして開かれないでしょう。
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