人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
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瞑想を超えた瞑想

2024-05-05 09:25:20 | 祈りと瞑想
瞑想というと、一般的には自分を見つめるとか、自分の中に入ってゆく方法のように理解されているようです。
本当の自分を見つける、それに目覚めるとか...
私の場合、現実問題として、そのような心的状態になること自体困難を覚えてしまうのです。
これは、スブドという団体に伝わる、“ラティハン“と呼ばれる、無為的な状態に導かれる修法に関わるようになって、そういう体質になったようなのです。
いや、それ以前から“現臨感覚“を覚えるようになってから、ということでもあったのですが、それがある時から失われてしまっていたものが、スブドに関わることで(感じ方は少し違うのですが)、取り戻すことが出来、今日まで至っている次第なのです。
つまり、ラティハンの実修をしてなくともそういう感覚はずっとある訳です。
では、どのような心的状態でその瞑想らしきものがなされるのかというと...それを意識するだけで瞑想的意識状態になるのです。無為的にそうなる...
ということは、自己をみつめようとする意志想念を超えて、超えたものに導かれるのです。
そもそも瞑想しようとしなくても、こうしてものを書いているだけでそうなります。歩いていても、寝っ転がっていても...ただ、そう意識されるということはあるのです。
それで自分はどのように認識されるのかというと、普通に思い、為している時よりも、“私はここに在る“、という自己、実存感覚を覚えているのです。
というより、そのような意識状態に導かれなければそうなりません。
で、その自分を、内面をみつめるとか、自分を意識するので無しに、何を意識するのかというと...“神に!“です。...
と、いつも言っていることですが、これは、実は分かりやすく言っているまでで、本当は実体の分からない神を意識するまでも無いのです。
しかし、そう意識される時、もうこの個体としての私は超えられてしまう、その超えたものに意識されてしまう...この超えたものを神と仮称しているに他ならないのです。
それは、じつに実存的な自己と切り離されたものではありません。
個体としての自己を、その内面を意識するのには困難を感じるけれど、その超えたものに意識される(“意識する“ということよりも適切な言い方であるのは間違いありません)ことで、その実存感覚が開かれるのです。
この理由で、私には“思い、為す私“からではなく、“神的な方から!“、その神と自己の不可分なる道が開かれるということが、現実的に理解されるのです。
そして、その方法となるのは瞑想...というようなことも超えられてしまっていることが分かるのです。神的なものに意識されるということは、いつも言うように、祈りと瞑想は切り離されるものではない、ということです。
何故、そのような無為的なものに導かれるかということは、勿論私の思い、力を超えているので分かりません。分からないから、“ゆだねる、祈る“ということがあるのでしょう?
一つ言えることは、元々、原初から自己と神的なものとは不可分なる関係があった、ということなのではないでしょうか?...

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