人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と偶像

2024-02-06 09:39:07 | 
「人間はその本性からして宗教的な存在であり、人間の魂は宗教なしには生きることが出来ない...人間は超越者への関係なくしては生きることが出来ない」
(ベルジャーエフ「共産主義とキリスト教」)

言うまでもなく、宗教と言えば神、神は信じ、祀られるものと思われているでしょう。
つまり多く神は、偶像と結びつけられているのです。神は本当は不可知なものであるにも拘わらず...
しかし、現実に宗教において信従されているものは、その教祖、教師、彼らが説く教義などなのです。これらが偶像視され、“神格化“されている訳です。
いや、宗教に限ったものでなく、ベルジャーエフが明らかにしたように、無神論を標榜する共産主義においても疑似宗教的な強い偶像崇拝が見られるのです。
又、私は、“我々がやっているものは宗教ではない“と謳っている、新手のスピ的な団体の教師、その教えもそうした傾向を持つ例を沢山知っています。
これらの教師たちが、普通に人間社会で語られるような、個人的見解を示しただけで、その言葉は何か絶対権威を帯びたように信従されてしまうのです。
要するに、神を信じようと信じまいと、宗教だろうとそうでなかろうと、神の内実性など全く問題にされず、人は自分を超えたものに依拠せずにおれないということなのです。
自分を超えたもの、見えない、捉えられない神は、見えるもの、捉えられるものに代用される...そうして人は自分の観念に囚われているのです。
神は...私は何度も言う...“自分の思いを超えたものである!“
先との言い回しの違いにご注意を!...自分の思いを超えるか否かで天と地ほどの違いがあるでしょう。
思いを超えるということは、実にこの囚われ、観念の隷属状態から自由になるということに他ならなのです!
宗教、疑似宗教問わず、何と本末転倒、歪曲した事態を現出していることか!
それでも人間は、その本性から超越者を求めずにいられないのです。
思われた一個なる自分がここに生きているのではないから!..生まれ出てくることさえ出来ないのです。
この自己実存の根拠から、超越者なしには自己は存在出来ないということに導かれるでしょう。
しかしそれは、自分以外の人間他者でも、人間が考えた神でもドクマでもないはずなのです。
しかし又、思っている自分からは、どうしても思いを超えることは出来ないのも現実でしょう。
真の超越者は、思いを超えたところから臨んでくる...それは、自己実存と切り離されてはいないのです。
こう言って、人間他者や人間が考えた神を信じること自体が偶像崇拝になる訳ではありません。
それを絶対視し、神格化してしまうことが偶像崇拝なのです。
偶像崇拝の何が問題なのか?...真に神的なものと一つになる、自己実現の道を閉ざすからに他なりません。そうでないならご自由に!、あなたが本当に自由なら!
あなたの神はその向こうに、又はあなたの中にあるのです。


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