人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

三位一体の音信

2024-01-18 09:32:45 | スピリチュアル
私はこれまで精神的な道に関する言葉に触れてきた中で、ラマナ.マハルシの「神、真我、導師は同義である」というものほど、啓発を受けたものは無いと感じています。
今もこの三つの音信は、三位一体のように私の中で鳴り響いているのを覚えます。
従来の宗教的な道では、神は自己からかけ離れた、外なる礼拝の対象として分離したもののように捉えられるか、又神を否定的に捉え、自己に内在したものを掘り下げていって、真の自己になるという道か、どちらかに偏り勝ちになる傾向があったようです。
現実的に考えてみれば、超越的な神的なものだろうと、内在的な真我的なものだろうと考えている自分からは、与り知れないものであるのは同じだ、ということが分かるはずです。
だから決めつけたように、“神は存在する!“と信じ込むことも、強く否定することも、“そう考えているだけ“である、ということを知らねばならないでしょう。
いや、だからだから超越的なものと内在的なものは切り離すことが出来ないのです。そう考えるのでなく、意識的にそうならざるを得ない!
ここで留意するべきことは、私など自意識の強い人間は特に言えることなのですが、考えている自分は真我に容易になりたがる、成りすましたがる、“なった“と信じたがるものだ、ということです。
もし、それで自分で決着をつけてしまうようなことになれば、本当に真我に目覚める道は永久に閉ざされることにもなりかねません。それだったら、ずっと観念的であっても二元的に分離した神信仰をしていた方がはるかにマシだと言えるでしょう。(ヘタな悟り系スピなどに走ってしまうよりは!)
又、考えている自分は、目覚めの契機にあってその限界を示され、その“現前するもの“に明け渡さなければなりません。
その場合、どうしても自分が自分に明け渡すというのはオカシイですね?
だから、神、導師というものが意識されないとならないのです。
といって、全く自己とかけ離れた、別なるものに明け渡すことなど、考えている私には到底出来るものではないでしょう?
だから神の現臨、則ち見えざる導師の出現(これは本当に同じなんだ!)を待ち望まなければならないのです。
この導師の導きというのは、何も“ああしろ、こうしろ!“、というものではありません。
愛、平安、リアリティ...それは声なきもの...しかし、これ以上強力な誘いというものは無いと言っていいでしょう。
私の本性がそれに惹きつけられてしまうのです!
その本性は...そう、神と導師と一つのものである、ということです。
大事なこと言いますけど、私がその三つが一つになったような境地になったかどうかは知らないですよ!
知らなくてもいい!...私の与り知れないものなんだから...
感じていたらいい!...分かりますよね?...

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