霊性の道においては、”一つになること”が重要視されています。
神、真我、真理...と一つになる。
ということは、そういうものを自分と分離しているように、対象的に認識したままではいつまでも一つにはなれないということです。(このことが取りも直さず、思いを超えるということを意味しているのです)
その中で神というものは、普通に礼拝対象として捉えられていますが、霊性の道ではそういう在り方は、否定されるか乗り越えられているのです。
又、普通に考えて、感じてみて真我、本当の自分というものを対象化するというのはおかしい。そうでなくとも、それになるというのは?...誰が誰になるというのか?
おかしいから神を求めるのです。神そのものを求める...もはや礼拝対象ではなくなります。
しかし、どうしても自己と、その現前にある超越者として向き合うということはあるのです。
これは先のように、自己と対象とが二つのままになっているということではありません。
二元的でありながら、向き合うという、一如の関係というものがそこに成立しているのです。
ユダヤ系の哲学者、マルティン.ブーバーが説えた、”我と汝”の関係というのもこのことを言い表しているに違いありません。
私はこれを対象認識(ブーバーに従えば”我とそれ”の関係)でなく、対向認識とでも呼んでみたいです。車の対向のようにすれ違うものでなく、二つのものが一つに惹きつけ合うような関係...最愛のものと向かい合うことというのはこういうことではありませんか?
何故そういうことになるのか?...ここに、二つのものが元々一つのものであったことが想起されて来ます。
即ち、我々が神を求めるということは、内的必然性、本性からなされるということなのでしょう。
神と一つになることは、真我に目覚めることと一つなのです。
然るに、人間は本当の自分のすがた、在り方を失ってしまった...だから、神的なものが我々の現前に臨みたもうのです。
小池辰雄先生がいつも言っていました。”いつまでも神を信じ、仰いでたってしょうがない!、信じ、交わらねば!”...
ああ...もう神が私か、私が神か?...惹きつけてやまないものを日増しに感じずにおれません!...
神、真我、真理...と一つになる。
ということは、そういうものを自分と分離しているように、対象的に認識したままではいつまでも一つにはなれないということです。(このことが取りも直さず、思いを超えるということを意味しているのです)
その中で神というものは、普通に礼拝対象として捉えられていますが、霊性の道ではそういう在り方は、否定されるか乗り越えられているのです。
又、普通に考えて、感じてみて真我、本当の自分というものを対象化するというのはおかしい。そうでなくとも、それになるというのは?...誰が誰になるというのか?
おかしいから神を求めるのです。神そのものを求める...もはや礼拝対象ではなくなります。
しかし、どうしても自己と、その現前にある超越者として向き合うということはあるのです。
これは先のように、自己と対象とが二つのままになっているということではありません。
二元的でありながら、向き合うという、一如の関係というものがそこに成立しているのです。
ユダヤ系の哲学者、マルティン.ブーバーが説えた、”我と汝”の関係というのもこのことを言い表しているに違いありません。
私はこれを対象認識(ブーバーに従えば”我とそれ”の関係)でなく、対向認識とでも呼んでみたいです。車の対向のようにすれ違うものでなく、二つのものが一つに惹きつけ合うような関係...最愛のものと向かい合うことというのはこういうことではありませんか?
何故そういうことになるのか?...ここに、二つのものが元々一つのものであったことが想起されて来ます。
即ち、我々が神を求めるということは、内的必然性、本性からなされるということなのでしょう。
神と一つになることは、真我に目覚めることと一つなのです。
然るに、人間は本当の自分のすがた、在り方を失ってしまった...だから、神的なものが我々の現前に臨みたもうのです。
小池辰雄先生がいつも言っていました。”いつまでも神を信じ、仰いでたってしょうがない!、信じ、交わらねば!”...
ああ...もう神が私か、私が神か?...惹きつけてやまないものを日増しに感じずにおれません!...
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