人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真の導師

2022-04-03 10:04:10 | ガイダンス
「導師は、外面からは心が内面に向かうように後押しし、内面からは心を真我に引き込み、静かになるように助ける」(ラマナマハルシ)

私は、これまで幾人か自分にとって導師的存在と見てもおかしくない方たちと出会ってきました。
ここで言っている導師というのは、一般にどう捉えられているのかはともかく、ただ追従、盲従し、依存信仰を助長させるような存在でないのは勿論、精神的な道の知識やメソッドを授けてくれる存在でもありません。
導師に本当に相まみえるということは、思われたままの自分の有り様にピリオドが打たれることを意味するのです!
真我というものが何かは分からないが、その出会いにより、少なくとも“今までそう思っていた自分”で無くなるのは確かなことです!
要するに、思われた人生では無くなる...人生最大のエポックに相まみえる、と言ってもいいでしょう。
もし、そういう存在に巡り会えたならば、形の上で離れてしまうようなことがあったとしても、それは、一生心の奥に拭い去れないものが刻印されるはずでしょう。
しかし、私の内面にはそういう存在は、言い方は適切でないですが、根付くことがなかったのです。
さっとドライにその存在、その関係したグループ(前者については忘れ難いものは感じていても、後者については、より一層ドライになれるものですが...)から離れることが出来るのもこの理由からでしょう。(しかし、強いて私に特別な導師的存在として、思い起こされるのは、大調和協会の“命位”様でしょう。“この方は私以上に私のことを分かっておられる”、と感ぜしめられたから...)
私には導師という存在と巡り会うことが無かったのか?...
いいや、”存在無き導師”と出会っているのです!...ラマナマハルシが言うように、導師は肉身を持っているとは限らないのです。私の外にも、中にも居る...
これを多く神的現臨と呼んでいる訳ですが、私の経験でも”存在ある”導師は、これを媒体していると言ってもいいでしょう。その存在と接見したら、そういうものが立ち上って来るはずです。
そして、見えない導師は、全く宗派とか思想を超越しているのです!
私がどこにあろうと、あの御方に相まみえる...だからドライになれる?
ただ、あの御方とより一層ダイレクトに接見する時は、諸々の信仰や思想的な色が付着しない、まっしろな(と言うか、見えないのだが...)有り様となるまでです。
真の導師とは、こういうことを伝えるものでしょう。
いや、伝えようとしているもの自体が、真の導師なのでしょう。
本当に道を求めている者ならば、遅かれ早かれ“見えない出会い“があるのではないでしょうか?...
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