神と一つになる...
“自己があって、向こうに神があって一つになる“、なんてことをイメージしてしまうものですが、それは我々が二元世界に生きていると感じているので、どうしてもそのような言い方になってしまうのです。
本当は思い、為そうとする我々がそうなろうとしてもなりようがありません。
神と人が統合するというよりも、思いを超えて元々統合された、一なるものが顕現するということがあるだけなのでしょう。
人間が在り、神が在るのでなくて、神人が在るだけである(ベルジャーエフ)
だから、我々が修行したりして、肉体を超え、思いを超えるということではない...そのものが顕わになることで、肉体があって、思考があって生きている(それは正にそう考えられているに他なりません)と感じなくなるのです。
だから、肉体を超えたら霊体のようなものが表れ、そういうものになるということも無いのでしょう。それが霊肉二元論というものでしょう。
霊肉に分離出来ないものに目覚める...
だからだから、我々は神というものを想定したり信じる必要は無いのです!...って話にはならないでしょう!
そうして、非二元スピで説いているように、我々は元々肉体を生きているんじゃない、神(と思われているもの)と一つなんだ!、ということを信じたりするのでしょう?
実際は、肉体が在ると感じているものを、殊更否定したりする必要も無いのです。
二元的なことを信じようが、一元的なことだろうと同じなのではありませんか?
だから、その3乗で、そういう思いを超えたものを頂かないとならないのです。
そのものに顕わになって頂く...自分から超えよう、それと一つになろうとする必要は無いのは言うまでもありません。
いつも言うように、そのことを意識するだけで、そのものが顕わになる、なって来る、開かれて来るのです。
一なるものが顕現する...我々がそれと一つになるのではなく、それにあって一つになる!...
一なるものが臨む...そこに切々とした“望み“を感じてなりません。望みは一つ!
それは、二つあるものが一つになる、ならしめられる...
一元でも二元でもない、愛そのものと言ってもいいでしょう...。
“自己があって、向こうに神があって一つになる“、なんてことをイメージしてしまうものですが、それは我々が二元世界に生きていると感じているので、どうしてもそのような言い方になってしまうのです。
本当は思い、為そうとする我々がそうなろうとしてもなりようがありません。
神と人が統合するというよりも、思いを超えて元々統合された、一なるものが顕現するということがあるだけなのでしょう。
人間が在り、神が在るのでなくて、神人が在るだけである(ベルジャーエフ)
だから、我々が修行したりして、肉体を超え、思いを超えるということではない...そのものが顕わになることで、肉体があって、思考があって生きている(それは正にそう考えられているに他なりません)と感じなくなるのです。
だから、肉体を超えたら霊体のようなものが表れ、そういうものになるということも無いのでしょう。それが霊肉二元論というものでしょう。
霊肉に分離出来ないものに目覚める...
だからだから、我々は神というものを想定したり信じる必要は無いのです!...って話にはならないでしょう!
そうして、非二元スピで説いているように、我々は元々肉体を生きているんじゃない、神(と思われているもの)と一つなんだ!、ということを信じたりするのでしょう?
実際は、肉体が在ると感じているものを、殊更否定したりする必要も無いのです。
二元的なことを信じようが、一元的なことだろうと同じなのではありませんか?
だから、その3乗で、そういう思いを超えたものを頂かないとならないのです。
そのものに顕わになって頂く...自分から超えよう、それと一つになろうとする必要は無いのは言うまでもありません。
いつも言うように、そのことを意識するだけで、そのものが顕わになる、なって来る、開かれて来るのです。
一なるものが顕現する...我々がそれと一つになるのではなく、それにあって一つになる!...
一なるものが臨む...そこに切々とした“望み“を感じてなりません。望みは一つ!
それは、二つあるものが一つになる、ならしめられる...
一元でも二元でもない、愛そのものと言ってもいいでしょう...。
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