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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の像、真我の像

2025-04-02 06:31:53 | スピリチュアル
「人間は神の真の似姿であって、神はそれをこの上なく愛し、自分自身の本体であるこの似姿のうちに自らを顕わにする」(ヤコブ.ベーメ)
「神は人間存在の意味である」(ベルジャーエフ)

創世記に、“人間は神の似姿として造られた“とあります。
似姿というのは、それを映し出すもの、像のようなものでしょう。
人間は、神を映し出す像、元より神性を内に宿しているものである...これが多く西欧などでは、“人間は本来神の子である“、と説かれる典拠となっているようです。
近世ドイツの神秘思想家ヤコブ.ベーメがこのことを強調し、後進の幾人かの哲学者、文学者、宗教家などに影響をもたらしましたが、取り分けベルジャーエフにより掘り下げられ、受け継がれました。
一者である神は、自身を直接見ることが出来ません。故に自身を見たいと望まれ、それを映し出す像として人間を創造しましたが、それは自身の性質も写(移)すということを意味するものでしょう。
だから、人間の内には神と等しい性質が秘められている訳です。
といっても、そういう“人間の思いを超えた“ような神話めいた話は、神など信じなくとも自由に思い、為して生きていける(と思っている)一コなる人間には、信じることも受け入れることも出来ないものでしょう。その限界を知らされない限りは!...
人間、この私自身、私の人生とは、そう思われたものだけのものなのか?...本当の私とは何なのか?
それは、いわゆる信仰ごと、人がそう信じ従って言っている言葉を信じるだけのことからは、充足出来ないものであるはずです。人間だけで生きているという限界を知って、自己実存に目覚めた人間であるならば!...
この自分は、鏡を通して自分の姿を見ることが出来ます。しかしそれは、先の人伝に知ることと同じで、直接自分を見ることとは違います。
私は、一度も鏡に映し出された自分がそのまま自分そのものと思ったことは、“相変わらずさえない顔してんな“と感じることはあっても、本当には一度もありません。直接見ていないのだから!
すぐ壊れてしまう、ガラス細工のものに映った姿が本当の自分なのだろうか?
本当に映し出されるものとは、自分を超えたものに映し出されたものではないか?
それが思っているだけの自分を超えた、真の自分の姿なのではないだろうか?
そして、真に自分が超えられた時、直に自分自身に向き合わされるのです。
言うなれば、真我の像を通して!...それは鏡を見るように見る像ではありません。内なる目に映じられるものです。
それは神的なものと一つのもの...神が自らを見たいと望まれた、その像が如何なるものかは、あまりに超越的である故に分からないが...そうした神の像があるのであれば、我々にはその真我の像があるということなのではないでしょうか?
人間は自分を超えたもの無しに自分を見、知ることは出来ないのですから!...
いずれにしても、このことは一者が一者のままであるならば、生起されて来ないものでしょう。
一者は超え出る!...ここに神と人間の二元世界が生まれるのですが、それは分離したままということを意味するものではありません。
そして人間も思っているだけの自分を超え出て、神と一つになることが出来るのです。
神の像、人間の、真我の像を通して!...
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