人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本来の祈りと瞑想

2024-02-24 09:48:42 | 祈りと瞑想
私は、通常行として捉えられる、祈りや瞑想に伴う方法や形は身に付いていないと言っています。
では、何が身に付いているのかと言うと...形を超えたものなので中々言葉では表せないのですが...
そういう実修に馴染んでいる方なら、不意に、自然と意識が表層意識を超えて祈り、瞑想モードのようなものに入ることをご存知でしょう?
そういうゾーン、あ、そう、サマーディに入る?...そういう場合は、方法や形を超えている...そう、だから身に付かないということが分かるでしょう?(分からない方はスルーして下さい)
身に付いているものとは、こういうもののことを言っているのです。
不意にと言いましたがその場合、ある啓発的なスピ関連の本を読んだ時とか、あるパワースポットのようなところで霊なる息吹きに触れたとか、子猫の切ない鳴き声を聞いたとか、何らかのその状態を呼び起こすものが契機として働くことが多いのです。
これはしかし、そうしたものに意識を向けることで呼び起こされ、開かれることは可能なのです。(あ、いつものことを言っちゃってますね...)
そうです、それは思いを超えたものによってもたらされるのです。
もう、私的にはほとんどの場合、それには現臨感が伴っており、それは現臨にある状態と言ってもいいでしょう。(現臨というものがどういうものか分からない向きには、このことから感じ取れるでしょう?)
そこでもし、あなたが一日のある一定の時間、形ある瞑想修行などを行う習慣があるとして、
突如そういうモードに入ってしまったらどうしますか?、そんな訳のワカランことは切り替えて、いつもの修行に打ち込みますか?...そんなナンセンスなことは無いですよ!、一体何のための修行なのか!
それが又もし、意識に深まり、“神に捉えられた“状態にでもなったら、そんな切り替えなど絶対に不可能になりますよ!...何が第一義のものなのか?
方法や形に囚われていると、こういうことが分からないのです。
自ずと身に付いているものが発現したら、その上に人為的なものを付加することはすべて余計なことなのです。
自ずと身に付いているもの...それは本来そうなっているものと言ってもいいでしょう。
祈りや瞑想のテクニックのことなど覚えちゃいません。その時自ずと発現したものにゆだねるだけです。
本来性というものは、いつでもどこでもそこにあり、帰ることが出来るものなのでした。
自ずと身に付いているということは、けだし自然なことなのでしょう!...

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