一時のブームは過ぎた感のある、ノンデュアリティ、非二元スピでは、全体だけがあって、分離した個人というものは無い、自由意志というものは無い、とワンネス、一元性を強調しているのでした。
そういう時代が来るというか、元々がそうなんである、と。
いつも書いているように私は、現実に二元的に個として生きていると感じている我々からは、それは取りつくシマの無い話なので、神というか一者なるものが顕わになり、ハタラキかけることに依る、と捉えているのでした。
この分離の無い世界というものは、旧約聖書創世記にある、楽園生活というものに象徴的に表されているように思います。
そして、分離した二元世界は、ご存知のように数多の不調和、混乱をもたらし、行き詰まってしまったので、非二元に目覚めることで、その楽園回復の時を迎えることになったことを象徴的に言い表すことも出来るでしょう。
それは、現実にそうなってみなければ分からないのは言うまでもないですが、仮にそうなるとして、私には、神代の楽園生活そのままが回復されるようになるとはどうしても思えないのです。
もしそうなら、非二元スピが説いているように、個人がある、自由意志も、そして神の存在さえも二元世界の一切のことは、夢、幻想に過ぎないということになります。
あなたは現実にそのように、フラフラと他人の言説にひっかかること無しに、自分自身の実存に照らして感じることが出来ますか?
いや、かつての楽園の住人には、実存感覚そのものが分からなかった!...元より個人が生きていると感じていなかったでしょうから!...そしてあの神との出会いの無上の歓喜というものも分からなかったでしょう。
私にはそれが考えられない、感じられないことなのです!
私は自由に、自己実存から考え、感じることが出来る!...自由に神の臨在を感じ、受け入れることが出来る!...いや、この全き自由はそこから来る...神と切り離すことは出来ないものなのではないか?
私がここに在るから神の実在を実感出来るのです。
こう考えると、我々の祖先がもたらした“失楽園の意味“がどういうものだったかが感じられて来ないでしょうか?
私は自分という存在を知りたい!、神よ、あなたは本当はどういう存在なのか?、失ったものと再び巡り会うことがどんなに喜ばしきことなのか?...私は自由になりたい、自由に考え、感じたい!
神は我々のその願いを叶えられたのではないでしょうか?(いや、それは神ご自身がそう望まれたのか?)
私に強く感じられることは、この現実的二元世界はそのままに、一元世界が、一者が顕わになるということなのです。
この不調和、相克の絶えない現実世界はそう、幻想、悪夢のようなものでしょう?
しかし、それは二元、分離した世界“だけ“があることから来るものなのでしょう。そして再びワンネス、一元的なものがそこに開かれる...私には二元だけの世界がそうであるように、個の、自由の無い一元だけの世界も夢のように思えます。
自己実存と神的臨在の切り離されない世界こそがリアルな現実なのではあるまいか?
分離を通しての新たな統合、それが新たな楽園の回復の意味するものでしょう。
それは、どこまでも他の誰でもない、代えることの出来ない自分自身の問題として示されなければならないのです。その自由は何ものにも侵されることは出来ないものでしょう。
あなたの真実は、あなた自身に、あなたの神に聞くべきなのです。
問題はもう、このことに集約されてしまっているではないか?!...
そういう時代が来るというか、元々がそうなんである、と。
いつも書いているように私は、現実に二元的に個として生きていると感じている我々からは、それは取りつくシマの無い話なので、神というか一者なるものが顕わになり、ハタラキかけることに依る、と捉えているのでした。
この分離の無い世界というものは、旧約聖書創世記にある、楽園生活というものに象徴的に表されているように思います。
そして、分離した二元世界は、ご存知のように数多の不調和、混乱をもたらし、行き詰まってしまったので、非二元に目覚めることで、その楽園回復の時を迎えることになったことを象徴的に言い表すことも出来るでしょう。
それは、現実にそうなってみなければ分からないのは言うまでもないですが、仮にそうなるとして、私には、神代の楽園生活そのままが回復されるようになるとはどうしても思えないのです。
もしそうなら、非二元スピが説いているように、個人がある、自由意志も、そして神の存在さえも二元世界の一切のことは、夢、幻想に過ぎないということになります。
あなたは現実にそのように、フラフラと他人の言説にひっかかること無しに、自分自身の実存に照らして感じることが出来ますか?
いや、かつての楽園の住人には、実存感覚そのものが分からなかった!...元より個人が生きていると感じていなかったでしょうから!...そしてあの神との出会いの無上の歓喜というものも分からなかったでしょう。
私にはそれが考えられない、感じられないことなのです!
私は自由に、自己実存から考え、感じることが出来る!...自由に神の臨在を感じ、受け入れることが出来る!...いや、この全き自由はそこから来る...神と切り離すことは出来ないものなのではないか?
私がここに在るから神の実在を実感出来るのです。
こう考えると、我々の祖先がもたらした“失楽園の意味“がどういうものだったかが感じられて来ないでしょうか?
私は自分という存在を知りたい!、神よ、あなたは本当はどういう存在なのか?、失ったものと再び巡り会うことがどんなに喜ばしきことなのか?...私は自由になりたい、自由に考え、感じたい!
神は我々のその願いを叶えられたのではないでしょうか?(いや、それは神ご自身がそう望まれたのか?)
私に強く感じられることは、この現実的二元世界はそのままに、一元世界が、一者が顕わになるということなのです。
この不調和、相克の絶えない現実世界はそう、幻想、悪夢のようなものでしょう?
しかし、それは二元、分離した世界“だけ“があることから来るものなのでしょう。そして再びワンネス、一元的なものがそこに開かれる...私には二元だけの世界がそうであるように、個の、自由の無い一元だけの世界も夢のように思えます。
自己実存と神的臨在の切り離されない世界こそがリアルな現実なのではあるまいか?
分離を通しての新たな統合、それが新たな楽園の回復の意味するものでしょう。
それは、どこまでも他の誰でもない、代えることの出来ない自分自身の問題として示されなければならないのです。その自由は何ものにも侵されることは出来ないものでしょう。
あなたの真実は、あなた自身に、あなたの神に聞くべきなのです。
問題はもう、このことに集約されてしまっているではないか?!...
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