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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神は私の現実そのもの

2025-06-24 06:35:47 | 
悟りを開くには無にならなければならない。
無になるには徹底した自己否定をしなければならない。
心を空しくしなければならない。
エゴ.マインドを落とさなければならない。...

私がこれまで幾多もの宗教、哲学など精神的な道についての本を読むなどして、如何にしてその目指す境地に達するか、という教説に接して来てみて、いつも疑問に感じてならないことは、言いたいことはもっともなのだけれど、現実にはそのようにはならない、ということなのです。
現実に、ということは自分自身に即してみる、ということに他ならないのですが、私が下根な人間なのか、自分から自己否定、空になる、なんてことはどうにも手がつかないように思えてならないのです。
そのために瞑想をするとか、種々の方法を行じるということが示されるのですが、それすらも中々意識が向くということが無いようなのです。
現実問題は、この意識が向くか、向かないかということに尽きるのではないでしょうか?
幾ら思おう、行じようとしても、意識が向かなければどうともならないのです。
自分の意志想念によって意識を動かそうなんて思う向きは、思考と意識の区別が付かない、よく理解していないことと言わねばなりません。
だから、現実に自分の意志で自分を否定したり、無にしたりなんか出来るか、ってことなんです。
そして私の今の現実に即して言えば...神、自分を超えたものに意識が向けられてしまう、ということが起きてしまうのです。
と言って、それは悟りを開こうとか無になろうとか企図している訳でも無いのですよ。
ただ、そうなることで思いから離れられる、それを超えた方に開かれるということなのです。
だから、自分を超えたもの無しには自分を超えることは出来ない、神無しには何も始まってこないということなのです。
勿論、最初からそのように直ちに導かれるということは無かった訳ですが、宗教的なことに関心を持ち始めて、割と最初から神に意識が向かうという自覚はありました。
そのことを意識させられるうち、そのように導かれたようなのです。
一方、自力修行的な瞑想などには心が惹かれること(これが意識が向かうということ)は無かったのです。
このことは、あくまで私の場合のことを言っているのですが、自分から、自力で悟りが開ける、無に、空になれるのなら、何も言うことはありません。
ん~...私の現実ではちょっと考えられないことなんですがねえ?
この神というもの。言うまでもなく、ここではその唯一絶対の神とか、何教の神、何々の神を信じるといったことを言っている訳ではありません。
現実に、その神的なものに意識が向けられ、自分が超えられるということを言っているのです。
それが私の現実。それは私自身の実存と切り離すことが出来ないということなのです。
神が無ければ私は居ない!
居るのか、居ないのか、実体の分からない神を信じるかどうか、という現実から浮いた観念、思念世界のことではありません。
神は私の現実そのものなのです!...

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