人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

サット.チット.アーナンダ

2020-07-30 12:15:50 | スピリチュアル
インドの宗教的伝統では、人間のその本性にある状態として、"サット.チット.アーナンダ"という、三つの性質が備わっていると言われています。
"サット"とは"存在"であり、"私は在る"という感覚というか、そういう状態としか言い様の無いものでしょう。この純粋な感覚からは、例えば"私は肉体である"と限定されたそれは消えてしまうことでしょう。同様にこの"私"は、大概頭脳智で思い描いているような霊体や何らかの精神体でもなく、如何なる限定も超えているということです。
"チット"とは"純粋意識"のことで、おそらく"意識の目覚め~覚醒"として言い表しているものは、多くこのものが表層意識を超えて顕わになる状態のことを言っているのでしょう。
"アーナンダ"とは"至福"のことで、最愛のものと共にある、愛、平安に包まれるような状態のことです。
と、このように如何にも、言葉をもって分節的に説明しておりますが、言うまでもなくこの三つの状態は分けられるものでなく、知識的にも分かりやすく言っているに過ぎません。一切の分節的なこと、理屈的なことを超えているのが本当なのです。
つまり、"サット.チット.アーナンダ"は、喩えて言えば、実際にそういう状態にある時には、"サッチタナンダ"になるということなのですが、知的理解によっても、こういうことはじっつによく言い表しているとしか言いようがありません。
何が本当の悟りかということはさておき、私は長い間そういう状態というのは、このチットにあること、純粋意識の目覚めのことと思い込んでいたのでした。
その中で、瞑想指導者アジス.クリストフの本で、その"アウエアネス"の次元の他に"ビーイング"、"ハート"(これをそれぞれ"サット"、"アーナンダ"に対応させることが可能でしょう)の次元があることを知って、大いに理解を深めることが出来たのです。
というか、私はどうも知らずに意識的な次元から、別な次元へ移行していたこと、というよりその意識的なことに囚われていたことに目覚めさせられたようなのでした。
単に意識的な次元のみからは、その目覚めた状態は持続出来ないのが普通でしょう。
だから、いつもその状態にあるという、本格的(?)な悟りを目指すなら"存在"、"ハート"の次元に目覚めなければならないのです。
しかし、それはおそらく各々について意識的にならなければ、"チット"無理でしょう。
改めて、この三つのことは切り離せないものだということが分かります。
しかし、しかし..."存在"、"至福"に落ち着くならば、悟りのことなどどうでもよくなるでしょう。頭で悟る訳じゃないんだから...
少なくとも、今の私は、自分が"サッチタナンダ"の状態にあるのかどうかということすら、迷いが多い故分からないし、どっちでもいいです。
しかし、しかし、しかし...悟りなどどうでもいいが、私はただ私自身でありたい、という気持ちはどうしようもなく理屈なしにあります。
それは意識的であることと、最愛のものと一つであることと切り離されないことなのです。
どうしたって、仕方ないことでしょう。これが人間の本性なんだから...
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1 コメント

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自然数の「妖精の問題」 (数哲句(「肉中の哲学」))
2022-01-18 06:27:56
 ヒフミヨはサット.チット.アーナンダ
 
 ヒフミヨは古代の言葉カタカムナ
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