人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ありのままの自分と真我

2022-08-17 10:13:58 | 意識、照明
“神とつながるには、ありのままの自分を受け入れなければならない!“

なんてこと言われたりします。前回のことを踏まえると、やっぱり自分からは出来ないでしょう。第一、私なんかは、ありのままの自分が何かが分かりません。
それで、ありのままの自分というイメージというか、何かを想定してそれになろう、なんてことやり出したりしたら、そんなの全くありのままじゃないじゃないですか?
よく考えたら、これは真我についても言えると思うのです。今の自分よりずっと高い、進んだ世界に居るのが真我なんだ、とか...
しかし、本当は、ありのままの自分のことも、本当の自分のことも知らないというのは、おかしいことですね、自分自身のことなのに...
それは、こうして生きている自分というのは、“偽我“だからなのでしょうか?...ああ、もう書けば書くほどおかしくなってくる...こんな自分を何か、自分を超えた大きなものに投げ出したい!
すると...書いているだけで、そうしたものから何か光が照らされいるのが感じられる!
例えようの無い幸福感!...もう、そこではありのままの自分を受け入れ、投げ出さざるを得ない!
え?...そうです!、それがありのままの自分に他なりません!
それは、どうしようもなくバカでダメな自分かもしれません。でも受け入れざるを得ないのです。これは、“受け入れなければならない“こととは、丸っきり違うことですよ!
自分で想定して、なろうとする自分像など一瞬で消えてしまいますよ!
つまり、光に照らされるままがありのままの自分なのです!...その光からは逃れられないし、隠れようがないし、誤魔化しようがありません。
ありのままの自分を受け入れる...それは本当の自分を受け入れる、神を受け入れることと同じでしょう。それは思いを超えたものを受け入れるということ...私が受け入れるのでなく、そのものが臨むから受け入れられるのです。(言うまでもなく、この神的な光とは神的な現臨の側面に他ならないのです!)
そこに疑問の余地が無い!...ありのままとは、自分の思いで描いたり、実際以上に飾ったりすることが出来ないということです。
自分は、常に正しい、進んでいる、悟っている...そうして思いを膨らませていたものは、すべて幻となってしまうのです。
だから、そういう人間がありのままの自分を受け入れることは困難と言えるでしょう。光の照射を拒み続けているのだろうか?...かくも幸福なことなのに...(ここに、福音書でイエスがパリサイ人を激しく糾弾していた真意があるようです)
ありのままの自分を取り繕うことは出来ませんが、いくらダメな自分が映し出されようと、逆に露悪的になる必要も勿論ありません。ありのままに気付く契機はずっとあるので、“いつも正しい人間“よりはいいでしょうけど...
そして、ダメな自分がただちに本当の自分ということにはならないでしょうが、それも光に照らされ、映し出されるものなのです。
まず、自己の闇的な部分に光が当たり、そこから隠れていた、どこかに置いてきた、もっとも大切な自分が顕わにされるのです。ありのままの自分と真我とは、一続きのものと言えるでしょう。
どちらも思いに引っかかっている自分からは分からないものです。思いを超えた光にあって示されるもの...こりゃ、確かにおかしいことにゃ違いない!...だから世の中おかしいことだらけなんでしょう?!
示されれば分からないはずなど無い!...自分自身でありすぎることなのだから...
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